昭和の風林史(昭和五四年六月二六日掲載分)

兵は勢いなり 余り物に採算なし

供給過剰、実需不振の、一種の価格革命にはいっている小豆相場である。余り物に採算なし。

「やり切れぬ思ひに團扇ただ真白 悌二郎」

この小豆相場は、売り方が売り飽いた地点が底になる。

目下のところ売り方は売り玉を利食いするけれどあまりの環境の悪さに辟易(へきえき)して利食いはするが、すかきず先限(新穀)を売り直している。

買い方は、半ば失神状態で投げている。

売り方次第の相場になっているから、売り玉の大量利食いで止まりもするし、反発もするが、実勢が改善されない限り、再び売られる。

相場で怖いのは、ひとたび魔性を発揮すると、日歩20銭で借金してきたお金でも、30年間精勤に務めあげて入手した退職金でも相場様は顔色一ツかえずに吸い取っていく。吸い取るだけでなく、まだ足りないと追証を請求する。

値段としては、いいところにきていると誰でも思う。いわゆる値頃感。これが曲者である。それは常識であるからだ。

大衆は間違っている―というアメリカの相場金言。という事は、大衆は常識的であり過ぎるからである。値段としてはとどいていると考えるのは、常識であるが、相場は、常に常識の枠を破りたがる。

輸入小豆の供用格差が一ツの物指し、目途になって、それを基準に、ものの値段を考えるけれど、これなども、人間様が勝手に決めただけで、相場様にとっては関知しない問題である。

 輸入小豆の供用格差を、これだけ虐待していて、なおこの有り様だから―物事は一ツ裏目に出ると、評価の仕方が、まったく違ったものに変化する。

さて『値幅は、こんなものだが日柄が足りない』と言うのが、今の段階では言いやすい言いかたになる。しかしそれは無難な言いかたであろう。いわゆる常識的にすぎる。

『戻りは売りだ』。それはその通りであろう。だが陳腐に過ぎる。

やはり、これが本当の、余り物に値なしの相場だという、夏なお寒し、売り方さえも、身の毛のよだつパニック場面がなければ灰汁(あく)が抜けない。

それは、誰もが、「まさか」の値段であり、「よもや」の相場かもしれない。11月限で二万九百五十円のあたり。

安値にきての売り込み(カラ売り)がないのに実弾は豊富である。ここのところを考えると、底なし沼である。

●編集部註
 当節、この大衆に関するこの相場格言を分析する人は皆無。故に今回の文章は一読の価値あり。
 「相場にコンセンサスはない」という言葉もある。 常識の彼岸に相場の極点は存在する。天底は狙って獲れるものではない。