悪い相場でも 投げたらしまいさ
投機家は相場様という悪魔に翻弄されても市場から離れきれない。それは魂を売ったからである。
「砂風の後に浮かぶや赤蜻蛉 百閒」
相場というものは、踏んだらしまい。投げたらしまい―としたもんだ。
人の気というものは、それぞれ思いは別別でも、こと相場の天底では、思いは一ツになるみたいだ。
考えてみると八月7日の寄り付きでも、八月新ポ、2日、3日と安い相場が二連休明けの6日S高しておったまげ、7日の朝寄り、売り玉踏んで、ドテン買いしたため、大きな売りハナになって、夜放れも夜放れ、人気を完全に強くしてしまった。
だが、この日の引けは陰線引けで、今から見ると、まるで脳天に五寸釘を打ち込んだみたいである。
買い屋は、この五寸釘でシビレてしまった。
買い屋側に、もし芯になるものがいたならば、ここの急所を見逃がさず、更に追いあげを利かしただろうし、八千円抜けに相場は、もつれ込んだはずである。
要するに、ここ一発の急所の詰めがなかった。
結果論ではあるが、煎れが出た。飛び付き買いした。強気がふえた。要するに高値取組みになった。
そこへ、産地天候が回復した。ホクレンが売りにきた。
そして、買い方期待の台風10号が屍みたいに抜けて農水省の作付け発表が三万六千という寝耳に水の数字となって、もう、この辺から相場のバランスが完全に崩れてしまったのである。
S安で叩き込まれると、買い屋の思考はメタメタになる。玉が、はまらんで二連発がきて、さあ追証とくれば、もうメロメロである。
あとはお決まりのコースで、売り屋が元気百倍、玉の回転が利けば、追証もほどけて、まさに千人力。買い屋は、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
そして、相場が皮肉な事に、辛抱していた買い玉を、もうたまらんと投げ切ったあたりが止まる値になる。
投機家は、この相場様に、どれだけ翻弄されてきたか判らないが、それでも相場をする人は、あとを断たない。
それは相場の中毒などというなまやさしいものではない。打たれて打たれて目の前が、もう、まっ暗な時は、誰しも、相場さえしなければ、私の人生、まだましだった―と思うのである
誰を恨むわけでもない。みんな私が悪いのさ。相場という悪魔に魂(たましい)を奪われた者の宿命とでも言おうか。
●編集部註
ここで内田百閒を出してくるところが風林火山の尋常ならざるところであり、教養人としての沽券であると言えよう。
漱石の弟子にして随筆の名手であった百閒は、同時に借金魔もでもあり、「貧に処して天をうらみず」と嘯いたという。