閑な事ぐらい 別条ないのである
相場が少々閑なぐらいで泣きごとを言っているようでは心もとない。静あれば必らず動あり。
「猿酒や深山紅葉の頬のほてり 袖子」
商品取引所が再開されて十年くらいのあいだは、市場にもよるが、相場が動かず、商いも実に細々の時期があったが、それでも仲買人(現在の取引員)は経営に信念を持っていた。
当時は、大衆店の事を場違い筋と呼び、当業者主導の市場だった。場違い筋の主たる顧客は戦前の三品相場や米相場を張った経験のある人や、証券筋といわれる株式相場のマニアが商品相場に手を出していた。
証券会社が商品仲買の兼営が出来た時代だから、証券会社の店頭に、証券と商品の黒板が並んでいた。
営業といっても、ズブの素人に相場を張らせることはなく、むしろ素人が相場をしたいと言うと、しないほうがよい―と止められたものだ。
当時は、外交員も営業所も出張所も今みたいな難しい規制がなく、実におおらかなものであった。
補償基金協会が発行している「きずな」10月号に、武田商事の武田恒社長が随筆で戦前のことを書かれているが、われわれの知っている時代とは、また別の、もっと自由な時代で、それでいて事故も紛議もなかった。
相場が動かず、閑な市場の、取引員の店頭を見ていると、二十年前、二十五年前の閑散低迷を想い出すが、当時と今では経費のかかりようが違う。
それにしても、わが業界は飛ぶ鳥落すような黄金時代があった。その頃、大儲けしたお金を、なにかの形で取引員会社が保存しておけばよかったと思う。人材を養成するとか、社会に通用する信用を確保するとか、立派な商品会館を建てておくとか。
その頃は、幾らでも人は集まり、お金は儲かると思っていたから、随分思い切って使ったものだ。
しかし今となってみると、せいぜい土地を買っていた分ぐらいだろうか、現在値打ちが出ているのは。
まあこれも、相場の世界で生きている人間だから、太く短くて、ちょっとだけ、いい思いをさせてもらったと、あきらめればよいが、商取業界の今後を背負っていく人たちにとって、先達の残してくれたものは重たい十字架だけというのでは、余りにも気の毒だ。美田は残さずとも、将来に展望を持てる業界にしておくのが、われわれの時代における責任ではないかと思うのである。相場が少々閑なぐらい、たいした事ではない。
●編集部註
後悔、先に立たず―。
面白いのは、平成に入っても同じようなコメントがあったという事。途中、何度か儲かった時期があっただろうに…。
ただ一番必要なのは、リスクをとる事、儲ける事が悪であるような社会の風潮を払拭する作業であったかも知れない。