昭和の風林史(昭和五七年六月二九日掲載分)

資力気力充実して持久戦

気力が萎えるような売り玉は踏むがよい。百万人といえど我れ征かん人だけ残れ。

小豆はボックスの中での動き。気分的には玉負けしている売り方の心労が大きい。

ドーンとボックスから上放れしたら売り玉総踏みという凝縮した密度の市場空気だけに、産地の天候を眺める目にも、おびえがある。やはりこれは、人気の変化というものだろう。

売り方は、少々はしゃぎ過ぎたという反省がある。巨大資金投入の怪物みたいな仕手の正体と、その作戦と、これに対する市場の打つべき手のない現実を眺めては、(1)早々と戦線を離脱する。(2)損切りドテンして強気に転換する。(3)あくまでも初心を貫く―のどれかにシフトする。

それにしても相場はどうだろうかと。

ニュークロップ次第である―と答えるのが無難であり、また、その通りである。

しかし迷える投機家達は、そのような答を希望しているわけでない。

商いは薄い。買い屋が煽りを入れ、辛抱できぬ売り玉が踏むところで抜けている。売り過ぎのトガメを上手に衝いている。
なかなか一筋縄でいかん。

値段は大きく飛んでいく相場になるまい。

罫線も操作されている相場には通用しないから困るけれど、視点を変えて、それも相場として見るぶんには、依然中段のモミである。

思うのだが、こんなことはいつまでも続かん。

筆者は相場を信ずる。今は人為の及ぶ動きだが究極は相場自然の流れに帰る。

いま、売り方は忍の一字である。買い方だって、そういう苦しさを耐えてきた。

しかも本当に苦戦しているのは買い方である。

死生の地で存亡の勝負を張っているからこそ、ここまできているわけで、売り屋の気力が萎(な)えるような勝負なら早く降りたほうがよい。これからが本当の決戦である。

●編集部註
 孝行の、したい時分に親はなし、気に入らぬ風もあろうに柳かな、ならぬ堪忍するが堪忍。人間、諦めが肝心で、何事も天災と諦めれば腹も立たぬ。と立て板に水の名調子で先代の春風亭柳朝は落語「天災」を演じていた。
 天災は、忘れた頃にやって来る。人為的な操作が疑われる相場の崩壊は、人災という名の天災だ。
 気に入らぬ風もあろうに柳かな―、と死屍累々の鉄火場で、涼しい顔で相場と対峙出来る人は少なかろう。これが相場で培われる人間力の違いだ。
 〝相場を信ずる〟とは、なかなかに言えない。