昭和の風林史(昭和五八年七月七日掲載分)

難所あり難破せぬように

小豆の行きつく先は三万八千円以上だが、それまでに難所あり、難破せぬように。

小豆の取り組みが漸増している。

特急列車の切符が買えなかった人達は先二本を売る。

どうせ行って三万五千円。それまでの辛抱売り上がりという気持ちがあるようだ。

しかしそれが言える人は、このあたりから出てきた人だけで、すでに三、四千丁引かされた人は声もない。

シュガー戦線に虎の子兵団が張り付けになって、小豆戦線に兵を回せず、指をくわえていた人も多い。

ゴムが突風のように煽られた。

とにかく商品業界は、あの商品、この商品よく出来て稼ぎどきである。

この原稿ともう一本(七日出稿八日付け)の原稿を書いておいて北海道を見てこようと思う。

北海道は昭和46年の増山相場の時に行ったきりで、あの時も冷害だった。雨中の小豆畑に立って作の悪さに暗澹としたことを思い出す。あれは九月。すぐそのあと増山さんが飛んできて、二度目の買い思惑に入ったが、これが命取りになった。

向こうから電話で原稿を送ろうと思うが、長靴さげて朝早くから晩遅くまで小豆産地のほとんどを回る強行スケジュールだけにそのような間がないかもしれない。日曜夜帰阪の予定。

そこで相場のほうだが三万四千円あたりから五千円のところにかけて、大きなゆさぶり地帯があるはずだ。

今の相場は一場で急変するから三日ばかり相場を離れると、強弱が書けない。基本的には高値で買い玉ひろげるなかれ。行きつく先は三万六千円→八千円であろうが、ローリング、ピッチングがきつくなるから船に酔ったようになろう。

従って深い押しは買う。噴いたら利食う。それでよいが、種玉(安い買い玉)持たぬ人はテレコテレコでちゃぶつくだろう。

●編集部註
 「用事がなければどこへも行ってはいかないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」という書き出しから内田百閒の『阿房列車』は始まる。
 漱石の弟子であり「サラサーテの盤」や「冥途」等、彼の小説は今でも読めるが、文学史では名随筆家として位置付けられる。『阿房列車』のシリーズはその代表格だろう。
 この時、風林火山はいっぱい用事があった筈。しかし〝行ってはいかないと云うわけはない〟と北海道に飛んだのだろう。
 風林火山は内田百閒が大好きであった。文体も似ている。以前大阪社屋の書架整理を手伝った時、幻の福武文庫版が揃っていたのは眼福であった。