小豆は作柄と相場が分離
小豆の戻りは満を持した売り物が。輸大高値これまた唐(から)竹割りになろう。
帯広も北見も小豆の作柄は壊滅状態である。これで九月に入れば早い冷え込みで霜の洗礼は間違いないから全道45万~50万俵の収穫だろう。
しかし相場は凶作の作柄とは別の流れに移りつつある。作柄と相場が分離しだしたからだ。
確かに降霜でS高の一発半ぐらいは急伸するだろうが霜一発の噴き値は成り行き売り―と手ぐすねひいている玄人がいかに多いか。この考え方の裏側には北海道の収穫が減れば減るほど次期枠がジャブジャブになる。自由化に踏み切る可能性もある―。要するにもう目の前の畑ではなく、その後に来る政策を読んでいくわけだ。
相場の勝ち負けは、いかに先読みで読み勝つかにある。いつまでも出がらしの北海道の畑を見ていると足もとがすくわれる。
もう一ツは買い方に芯がない。旗振りがいない。
買いは烏合の衆である。勢いに乗って攻めに回っている時は倍の力を出したが、敗勢に回ると算を乱す。
取引員自己玉は総売りだ。これは重圧である。
若い相場ならまだしも日柄がきている。だから出来高等のボリウムがない。すぐ商い閑散になる。
高値因果玉の整理が霜一発を期待しているから進まない。
という相場である。しかも自由化問題がたえずつきまとう。自由化と決まればS安四、五発が襲うだろう。小豆相場の革命だ。
従って戻りは売り上がり怖くない。上値に、おのずと限界がある。
狂乱のシカゴ大豆は16億ブッシェルから13億ブッシェルまで買った相場という。これも作柄と相場が分離しだすところ。
穀取輸大の頭が重いのは大衆の買い過ぎ。
すでに日柄一杯だから、高値あれば決然売りの真空斬り場面とみる。
●編集部註
ビオロンとバイオリンのように、現在人口に膾炙している外来語のカタカナ表記と、その昔の表記とで、乖離が見られる事がたまにある。
太平洋戦争を挟んで前後でその乖離幅が大きい。バイオリンをビオロンと表記した上田敏の海潮音が出版されたのは明治後半。漱石や鴎外の作品でも表記が発音由来になっているケースが多い。
昭和に入っても、例えば漱石の薫陶を受けた内田百閒の随筆に出て来る外来語は発音由来のカタカナになっている事が。ボーイはボイ、バターはバタ、コーヒーはカヒとなっている。今回の記述で登場するボリウムもその中の一つ。こおいう細かい所に、教養の一端が出て来るから文章は怖い。