運を育てるには(代筆)

 本日風林翁お休み。キーボードに手をかざしつつ書きます。儀式? いいえ、一息で書けないのです。

カッコいい事は、なんてカッコ悪いんだろう。

世々を経て言葉の表面だけをなぞっていた自分に気付いた時、早川義夫のこの言葉が胸にしみる。

相場の面白さは、人が誰でも少しは持っているであろう虚飾が、全く通用しない所にある。

むしろ、虚飾のために死に至る事さえある、といえる。相場は、人を写す鏡のようである。

こんなはずじゃなかった。たまたま運がなかっただけ。まだ本気を出していないだけ。敗因を語ればきりがない。

ならば運さえあれば勝てるのか?それなら分析や長考など時間の無駄。運を捕まえればいい

将棋の米長邦雄氏は、稀代の勝負師であると同時に「運を育てる」という本も書いた、運を〝培養〟する名人である。

運は「後ろ髪なき女神様」と米長氏は語る。すれ違い様に女神様に気付いても、ない後ろ髪をつかむ事はできない。

女神様に好かれるために日々を生きている、と氏は公言して憚らない。

謙虚と感謝と努力を怠らぬ人間が好きで、そんな人の前に女神様はフラリと現れるという。

そこでも、いつも通りの笑顔で「ありがとう」とニコリ。これが運ある人の姿なのだそうだ。

逆に、絶えず自分以外の誰かを敵にせねば生きられぬ人物もいる。

比較し見下し、他人の非を論う人の目の前に、女神様は寄りもしない。

他山の石といってしまえばそれまでの話だが、ここで注意が必要。

石ころを憎まず「お蔭で成長させてもらえてありがたや」と、〝慈しむ〟領域にまで至らぬ限り、やはり運の女神様はご降臨されないのだという。