空虚なる支え 大勢歴然と下降
今週あたり、なんということなしに千円ほどぶっ叩いてきそうなアッという場面がありそうだ。
「松蔭や雲看る石に秋の立つ 紅葉」
暑さは一段と厳しくなるわけだが、立秋の声を聞くとなんとも救われたような気になるのは、年々体力が目に見えて衰えていくせいかもしれない。松尾芭蕉は、此の秋は何で年よる雲に鳥と読んでいる。秋病めば火星近付くことのあり(麦草)。朝顔も華やかな時期を過ぎ河原に撫子が咲く。萩も咲きはじめる。新幹線で通り過ぎれば水稲(すいとう)の穂も出ている。
秋立つと仏こひしき深大寺(秀野)。月おくれのお盆で帰省する人も多くなる。都会では聞けない蝉の声を背中に浴びながら、お墓のまわりの草をむしるのも、心のやすまるいっときであろう。
そういうことをぼんやり考えていると、相場なんかどうでもよいような気になってくる。高かろう、安かろう別条ないじゃないか―と。
だが、それではいけませんと心を取り直して相場の世界に舞い戻る。だが遠くからの波の音、女子供の砂浜で騒ぐかん高い、はしゃぐ声などが、炎風にのってきこえてくるような気がする。水平線上には入道雲。なんで相場の強弱なんか書かねばならん。
そうだきりぎりすも草むらで鳴いているだろう。明けても暮れても相場と原稿と金繰りと、人間関係の煩雑さで過ぎていて、ふと気がつくともう秋立つという。
秋立つや薮下刈りも昨日今日(杜羊子)。牛部屋に蚊の声聞き残暑哉(芭蕉)。秋立つや川瀬にまじる風の音(蛇笏)。
週末の相場は下寄り後、引っ張りあげた。
すでに山場を過ぎている相場のように思える。
筆者はこの相場に対して強気になれない。どう転んでも一万四千円そこそこまでの千五百円安が遠くない将来に実現すると見る。時として一万四千円割れの相場である。
中旬にかけて、もう一度買い方は攻撃をかけてくるのかもしれないが、どうでもよいことだと思う。高いところ、すなわち先三本の六千円台は売ればよいわけだ。
六千円台を売った玉は日ならずして利食いできている。
しょせん、崩れなければならない相場だ。
●編集部注
週休二日という感覚に馴染めない。
土曜日は金融版の作成や、勉強会などで、何だかんだと出社していることが多い。
小中高と、土曜日も授業があった世代の悲しさ哉。
取引所もこの頃、土曜も午前中取引を実施。この記事は、土曜日の値動きを元に書かれている。
半ドン取引がどんなものであったか、今では知る由もないが、この記事を読むと、何となくアンニュイさを感じる。
半ドン取引の名残りは現在、一目均衡表や移動平均線に見る事が出来る。26日という数字がそれだ。
【昭和四六年八月七日小豆一月限大阪三〇円高/東京二〇円高】