昭和の風林史(昭和四六年九月十八日掲載分)

終戦処理段階 暮れは閑になる

われわれは、またいろいろな事を学んだが、それは過去に幾度も繰り返してきたことばかりだ。

「草川のそよりともせぬ曼珠沙華 蛇笏」

今年の暮れの、この業界を思うと川原の枯れすすきの歌の光景が目に浮かぶ。

小豆相場は、近寄る人もめっきり少なくなっているだろう。商品業界全般が荒涼としているかもしれない。ドル・ショックで大衆投機家のほとんどは、やられた。そして残っていた投機家が小豆・ショックで壊滅してしまった。

生糸で、毛糸で、ゴムで、小豆で、それはまるで大衆投機家だけを狙うかのように思惑の逆の方向に相場が荒れて、どの商品市場も取り組みはほどけ、新規は介入せず、これが年末ごろにはなにもかもが沈滞するのではないかと思う。

特に穀物業界は、これだけの騒ぎがあったのだ。しばらくは終戦処理で取引員も営業面が手薄になると同時に、一枚50万円という証拠金と、二万円の相場では、思惑の介入する余地がない。

残された大手亡豆は一時六限月制にしようとする動きもあったが、先の見えない人たちの反対にあい実現せず、三月限のままでこれをもって穀物業界は、いつまで、どこまで細々とやっていけるのか心もとないことおびただしい。

それにしても思うことは、今度の件で、小豆は今のような取引所当局者の運営のもとでは、上場商品としての適正を欠くということである。
いずれは上場廃止の運命にあるといえよう。

博打の道具としてなら、それ相当の運営の方法がなければならない。三年に一度の割りで、こういうことを繰り返しているようでは取引所存在の意味もないし上場商品としての資格もない。

業界の一部特定の実力者たちによる〝まやかしの博打〟でしかない。

それとまた、取引所理事長とか協会長、あるいは市場管理委員長に〝相場師〟を選出すべきでないということを、今度の件でもあらためて業界に知らしめた。

相場師が協会長になるべきでないし、市場管理委員長にもなってはいけない。

事に対処し冷静で、公平であるべき立場の人が、自分の思惑(建て玉)によって不公平な判断と結論とを出しかねないし、おうおう過去にも、そういう悪い例があった。

われわれはまた今度の件で、いろいろなことを学んだが、そのほとんどは過去にも幾度となく繰り返し、叫んできたことばかりである。

●編集部注

「相場師が協会長になるべきでないし、市場管理委員長にもなってはいけない」という文章を読んでハタと気づく。

そういえば小説「赤いダイヤ」の敵役は取引所の偉い人で、しかもバリバリの相場師であったと。

上記の指摘は、まさに核心を突いている。

あの小説でもクライマ ックスは解け合いだった。

それはやっちゃ場が鉄火場になり、賭場でさえなくなる道程でもあった。

四十年も昔に証拠金一枚50万円とは相当な金額。もう素人には手が出ない。かくして、一つの銘柄が終焉を迎える。パラジウムの時もそうであった。

投機を博打と割り切るなら、それ相応にちゃんと賭場を整理しろという事か。

それをもせずに、中途半端に放置したツケがいま現在の商品取引市場に回ってきている、といっても過言ではない。

【昭和四六年九月十七日小豆二月限大阪四一〇円高/東京三四〇円高】