昭和の風林史(昭和四六年九月三十日掲載分)

茫々広漠冷雨の中に立つ
立ち枯れ蔓延 悲惨!!十勝平野

どの畠もどの畠も立ち枯れでない所はない。ここへきて、その被害はかなりひどくなってきた。

〔帯広より二十九日〕東亜国内航空帯広経由釧路行き一一一便は帯広の天候が悪いため札幌丘珠空港に着陸、しばらく待たされて飛んだが、帯広には降りられず釧路まで連れて行かれた。釧路空港から帯広まで一二〇㌔、太平洋岸ぞいに国道二四〇号線から三八号線にハイヤーをとばして二時間。急ぐ旅ではないが急ぐことがある。二十七日北見斜里地方に例年より十八日も早く雪が舞った。

帯広は雨であった。長靴を用意して待っていてくれた山種物産の小林登帯広所長と北海道明治物産鈴木樹社長と山買いこの道三十年の遠藤静夫氏の案内で、砂利石をぶっとばしながら芽室川西と走る。気温は十度。

予想はしてはいたが、目もあてられない立ち枯れの惨状である。冷たい雨の中で鎌入れが進んでいる。25、26、27日とこの三日雨ばかりだったそうだ。まるでツユのようだ。

農家は霜の降る前に鎌入れをいそぐ。雨足はいよいよ強くなる。

相場の方は各市場小豆、手亡各限ストップ安であった。28日に霜がなかったからという。北伏古から中伏古、立ち枯れで消えた畠が雨の中につづく。十勝でも一等場所といわれる二十㌔四方一体の中心を遠藤氏がクマなく案内する。六線道路から十線道路へ二百四十間(約四百四十メートル)青刈りでなければ立ち枯れのままである。

八月十日前後反収三・五俵は絶対とみられていた基松(もとまい)の松浦定吉氏(元国会議員)の畠が帯広で最高の出来というので寄ってみたが、ここも立ち枯れがひどい。

その後、内地からあれほど沢山の人々がきたが、立ち枯れがひときわ判然としてきて以来、山大商事の関口氏と石原の平野氏の二人しか畠に入っていないそうだ。

その理由が判らぬこともない。昨年は立ち枯れを買って誰もが失敗したことや相場が二万円をつけて六十一万俵収穫が明らかになった時点では、畠より市場の方が気になるからである。

鈴木社長「出盛り期が端境期になりますね」

小林署長「雨の中を鎌入れしても、あのほとんどが降霜凍結でやられてしまう」

遠藤氏「芽室はひどいが川西はまだよいと思っていたのに川西もこの三、四日でまるでひどくなった。この雨で一週間前に刈りとった分はくさってきている」と。

●編集部注
 東亜国内航空とは時代を感じる。後にJASと呼ばれ、今はもうない。

 ただこの時は昭和四六年五月に発足したばかりの新興航空会社であった。

【昭和四六年九月二九日小豆二月限大阪一八〇円高/東京一四〇円高】