昭和の風林史(昭和四六年十月十九日掲載分)

七千三百円か 因果玉が鈴なり

手亡は駄目だ。皆さん総水浸りで戻したら我れ先に逃げたい。先限の七千三百円あたりがあろう。

「武蔵野の雑木紅葉に木戸を置き 迷子」

ちょっと手の出ない場面であるが、つなぎ物が一巡するとすぐ軽くなる小豆相場だ。

秋たけなわ、需要最盛期である。先月末で在庫のほとんどを空にした大阪市場は。少々の韓国小豆の入荷ぐらい、羽根がはえて飛んでいく。

市場の感心は交易会の成約状況に集中している。年間百万俵不足と見られる小豆だけに、相当のものが輸入されないと、大変なことになる。

それは判っているけれど人気で動く定期相場は、一度や二度は交易会の成約ニュースでドッと売り叩かれよう。

市場が市場だけに、瞬間風速七百円のストップ安ということもあろうか。

しかし、交易会成約ニュースで売られた、そういう急落は、成り行き買い場と判断すべきで、安いのは瞬間的である。

筆者は十二月の農林省の最終収穫高発表まで、この小豆相場は寿命を保つと見る。

手亡のほうはどうだろう。

手亡は皆さん高値掴みになっている。

戻ったら逃げたい。誰もおなじ考えである。

十一月限の九千円台。八千五百円から九千円の間、ベタ買いの総水つかりだ。

十二月元の八千六百円どころ。まさに鈴なりだ。

だから戻らん。

先限の七千三百円あたりあるように思える。目先的には二百円も戻せば御(おん)の字であろう。少しでも戻したところで両建てにして、七千三百円あたりで売りをはずして、今度は買いナンピンといけば被害軽微で高値の玉が逃げられんこともなかろうが、そううまくいくものではない。

手亡に、つい手を出したのを因果とあきらめるしかなかろう。

手亡とは、そういう相場で、まるで海千山千の婆(ばば)芸者で、ケツの毛まで抜かれるのがおちだ。深入りしてはいけない。

手亡当限の九千六百六十円とか、中限の一万百九十円という鳥もかよわぬテッペンをワッと買って持っている人がいる。まるで阿呆の見本みたいな顔をしている。

●編集部注

仏蘭西ではエスプリ。

英吉利ではユーモア。

日本では、諧謔の精神と言うべきか。ちょっとした笑いの要素が、事の運びを軽やかにする。

場所と時代は変われども、笑いの効用に関する認識は、どうやら世界共通のようだ。つらい現実は、笑いで浄化される。海外では、黒人とユダヤ系に優れたコメディアンが多いという。

大量の金粒を飲み込んだ挙句に窒息死した男の死体を付狙い、火葬場まで乗り込んで腹を割き、そこから取り出した金粒を元手に商売を始めて成功した男がいた、と書くと猟奇的な極悪人だ。

ただ、これが「黄金餅」という噺になると風景が変わる。立川談志いう所の「業の肯定」である。

相場にも悲喜こもごものドラマが付きまとう。 

「そこで買ったお前さんが悪い」といわれればそれまでの事だ。

ただそこに、トウがたっても、海千山千を乗り切った老獪な芸者が出てきて、クスリとなればしめたもの。憤りは幾分でも諦念に変換される。

【昭和四六年十月十八日手亡十二月限大阪八〇九〇円・一三〇円高/東京八一四〇円・二八〇円高】