昭和の風林史(昭和四六年十一月八日掲載分)

買い方総攻撃 失地回復を策す

買い方の、うんうんうなっている声が聞こえる間は直らないとも思える。

「銀杏散る遠くに風の音すれば 風生」

相場というものは、どれほど在庫が多かろうと、また悪い材料が山積しようと、下がる地点まで下がると、それ以上は下げきれないものである―と教えているのが今の手亡の相場だ。

売るだけ売った。叩くだけ叩いた、投げも投げたり。そしてとどいた。

手亡の相場を見ているとなにか大きな材料があるように思えてならない。

相場とは、こういうところを買っておけば、しばらく忘れているうちに結構利益が乗っているものだ。

それにしても小豆のほうはどうだろう。

これも長い目でみれば値段もかたまり、結構大底を構成する段階に来ていると思う。

もとより高値に因果玉がないわけではないが、これらの玉は、半ばあきらめの境地にあるから、ここから少々下げたところで投げてはこない。一万六千円を売って、うんうんうなりながら二万一千円相場を辛抱してきた人だっている。
まさか、あのストップ高でぼんぼん火が噴いている最中一万六千円の売り値まで相場が崩れるとは考えていなかっただろう。

相場は見切りも大切だが、辛抱も必要な時がある。

葬式出しての医者話になるが、三晶が踏まず、元帥のところも踏まずあの玉を辛抱していたらモノになっていたかもしれない。とは言うものの三晶が踏まなければ、もっと相場は大きくなっていたかもしれない。

その逆で、買い方大手が投げなければ止まる相場も止まらないと言えるのかもしれない。
あの時ああしてこうすれば―というのは詮ない愚痴である。近藤紡が十一も十二も一月もどんどん売り上がっておれば大変な利益である。

相場とは真に面白い。売り方が売って大暴騰相場をつくる。買い方が買って買って大暴落相場をつくる。踏んだら仕舞い、投げたら仕舞いと知りながら踏んだり、投げたりせざるを得ないのは資力と気力の関係だ。

さて、どうなんだろうこの小豆相場は。

買い方が頑張っているうちは駄目なのかもしれないと思うようになれば底値になろう。

●編集部注
どうして、自分が買ったら下がり、売ったら上がるのだろう―。取引でこれまでそう思わなかった人はいないと思う。

この業界に入って、初めてついた上司と食事する機会があった。今も現役バリバリ営業の鬼は、満面の笑みで話す。

「最初からそういうものなのだと思えばよろし。一番大事なのは、上下の向きと損切りである」。

【昭和四六年十一月六日小豆四月限七〇円安/三〇円安】