昭和の風林史(昭和四七年一月二十九日掲載分)

軟調続々降参 もう千丁と言う

もう千丁あるという。参った。堪忍。降参―というところだ。判らん。見えん。読めん。

「砕氷船左にかしげ右にゆれ 雨圃子」

相場を見るのが本当に嫌になる時がある。それは相場が間違った方へずんずん行く時である。自分の相場観は正しい。黒板のほうが間違っているのである。

しかし、石が流れて木の葉が沈む時もある。

人はよく相場に曲がるという。あれはおかしい。相場が曲がるのである。曲がった相場なんか相手に出来ん。

市場では、本気なのかどうか知らないが、先限の一万七千円目標を言い出した。正気の沙汰ではない。暖冬で狂いだしたのは梅や桜だけではなさそうだ。狂った相場は、狂った人間にしか判らない。

人気面は明らかに強くなった。煎(い)れは出たか。かなり踏んでいる。だから反落するとは限らない。勢いに乗った買い方はゆるめることはないだろう。

当たり屋筋は、もう千丁あると言う。あるいはそういう場面なのかもしれない。戻り売り人気が強いとも言う。立場を変えれば見方も変わろう。ここから千丁あるとしても取りに行けるか、というと、買いで取ってきた人には出来るがうんうんうなっている売り方には、それは不可能だ。

阿呆らしくて、なにが悲しくて、こんな値段を買わんならん―となる。

そういう気持ちのあるあいだは、この相場、下げようがないともいえる。

中共小豆はありガスレ。北京商談は見込みなし。台湾小豆は豪雨被害。市中現物は買い方の缶詰め。そして安値取り組み―。

掌を返したように強材料ばかりが飛び出してくる。ある程度は相場が強気をいわすのであるが、値段がいうことをきくあいだは逆らえない。

相場金言に、しまったは仕舞え―とある。追証かかれば玉仕舞えともいう。値ごろ観無用。相場は相場に聞け。そういう事は先刻百も承知であって、それが出来ない時もある。

筆者は、白旗を掲げて堪忍降参である。

判らん。見えない。読めん。だからお手上げグリコのマークだ。

威厳を正そうと思えば、敗軍の将、兵を語らず―などという。降参、堪忍、まいった―さあ強気だ、買いだ、上だ、でもよろしいがそういうことは相場を冒涜(ぼうとく)するものと思う。

●編集部註
 今回は、非常に丁寧な感想戦的文章である。
 
 相場にけれんは必要ない。
 
 何より素直である事。

【昭和四七年一月二八日小豆六月限大阪三〇円安/東京四〇円安】