昭和の風林史(昭和四七年五月十二日掲載分)

忘れたころに 実勢悪相場出現

実勢悪に目をつぶり誰もが強気に〝洗脳〟されたあたりで、どっこいそうはいくものかと崩落する。

「柿若葉重なりもして透くみどり 風生」

相場は、どこまでも意地悪に出来ているから、人の気持ちを、ここで、うんと強くし〝洗脳〟しておいてからドスンとくるように思える。すなわち、一万円そこそこの値段は、やはり底値である―と。

在庫が結構ある。しかも先行き輸入されるから供給面に不安はない。

時は六月不需要期。

そして四千円台には因果玉がある。今月の納会も渡し物は、かなりの量になる。

―だから、ダラダラ下げていては、市場はさびれ、〝富士の裾野〟型の無相場低迷時代を迎えるだろう。誰しもそれは困るし、単品(穀物だけ)の取引員は経営を心配しなければならない。

そうなるかもしれない、と思うと同時に、そうなったら困ると思う。

しかし世の中は、うまくしたもので、万人そのような心配をした時は、相場が逆に反騰して、おや、これなら天候相場で結構波乱があろうと期待も強くなる。危機説に危機なし―というあれと同じである。

ところが月にむら雲花に風。買い方は意を強くし元気を出し、売り方は、おやおや目算違いで追証がかかれば、早々と踏みも出て、一時あの総悲観人気もどこへか薄れ、在庫がなんだい、輸入がなんだい、下げるばかりが相場じゃないんだ―と、市場全体が明るくなる。

人間、やはり陰気より陽気、下げ相場より上げ相場を好むものである。

ひとわたり買い上げ強気がふえたあたりで、どっこい忘れちゃいませんかとばかり六月崩し見ようの事、強気にさせておいてぶった斬る。雑豆の自由化、台湾小豆の増産、価格を大幅に下げての売り込み。15日ぎりぎりになっての交易会の大量成約(秋の交易会は期日ギリギリの14日に大量契約が出来て、とどめを刺された)。

ともあれ、人気を強くしたあとの下げは、押し目買い人気になるものだ。小豆が欲しくて買うわけではない。買った玉に未練がからむから買い下がる。

そして値ごろ観による買い下がり。一万円そこそこは買ってさえおけばなんとかなるさという考えと天災期にはいるのだからどこかで一発高もあろうさ―という思惑。相場は思惑の外にあって実勢不振を背負い続落していく時がくる。

●編集部註
 ここに来て自分に言い聞かせている感は否めず。 

 相場師は孤独な稼業だ。

【昭和四七年五月十一日小豆十月限大阪一万一六六〇円・二九〇円高/東京一万一六四〇円・二五〇円高】