昭和の風林史(昭和四七年七月十九日掲載分)

待つのも相場 あせる事はない

下の心配はないのであるから、強気して上昇のタイミングを掴む。要は信念である。

「これよりの百日草の花一つ たかし」

ほとほと書きようのない相場になった。根(こん)くらべである。玉は回転しない。売った人も買った人も動かしようがない。玉が踊らなければ手数料も落ちない。営業成績に響いてくる。なんとかならんか、と気の立っている時にはなんともならんものである。

あす(19日)は土用の入り。産地の天候は実に不安定そのもの。こういうのも珍しいものだ。

朝六時と正午の天候と気温だけ見ていては、それが判らない。

ケイ線も、これでは下げ余地がない。這いまわっている。もとより、これも相場。もうしばらく展開を待つ。

安いところをガンガン叩いた売り方。その売り玉が、なんとも情けない顔つきである。手仕舞うわけにもいかない。キッカケを作って火がついたら、わが手で締めあげることになる。

買い方は、まだその点、気が楽だ。どこかで天候が崩れよう。きっと相場になるはずだ。下げ余地のない事が、はっきりしている。じーっと水風呂につかっておれば、湯になってくるだろう。なにかあるさ。

大阪小豆12月限が五百五十円カイとくれば、これはもう相場が革命する。11月限で六百八十円抜け。10月限でいえば四百円抜けから革命だ。

下値は新穀二本が、ガッチリと一万円で大底している。大底した相場を売り叩くのは、それを大底と認めないからであろう。相場が大底打ちましたと言うのに人間様が、いやそれは底でないと逆らったところで相場の言い分のほうが筋道たっているし、相場がそれを態度で示せば、人間様が負けるにきまっている。

買い方は疑う事を知らない。左様か、じゃあ買おう―。買って辛抱している。待てば海路の日和かな。バタバタする事はない。

本来、相場というものは追いかけて取るものではない。待っていて流れに乗るのを上策とする。

小豆はそういうところであるが手亡はどうなのか。手亡は知らぬ間に高くなってしまった。今から手を出しにくいから熱狂して煎れがでるようなら一発売ってみよう、あと安かったら買おう―という人気のようだ。

ともかく小豆も手亡も強弱にならない相場で、こういうのを相場記者泣かせという。

●編集部注
 乗ってやろうと待って待ちくたびれて。諦めた所に来るのも相場である。

【昭和四七年七月十九日小豆十二月限一万〇〇四〇円・三二〇円安/東京一万〇〇四〇円・二六〇円安】