昭和の風林史(昭和四七年八月二日掲載分)

運は天にあり 相場は理外の理

曳かれ者の小唄かもしれないが、やっぱり弱気にはなれない。反発の素地は固まりつつある。

炎天下に立てた氷柱さながらに見る見るうちに値が消えていく。

一夜明ければ二百円安い。買い方はたまったものではない。

そこへ、ここをせんどと売り方は攻勢をかける。買い物薄の地合いに三十枚ウリ、五十枚ウリと声を出せば、その声だけで値が崩れる。

全く売り方ペースである。売り方から見れば買い方の顔など、まるで阿呆の見本のように見えよう。

売ってさえおけば銭(ぜに)が儲かるのに、何を苦労して買うのかという。ちょうど去年の今ごろの正反対の状態である。

去年は八月五日に一万六千円に乗せたあと、十六日に一万四千七百円まで下げたが、それからは丸一カ月間に六千円余りの棒上げを演じ、九月十七日には二万九百四十円をつけた。

そしてついに実質的な解け合いとなって終止符を打った。

あの当時は二万円も相場なら三万円も相場だ、現物が一俵三万円でも不思議ではないと強気は豪語したものである。

それが今では余り物に値なしである。輸入物なら二俵一万円説。それから

逆算して道産物で七千五百円説まで弱気は主張する。

もう少しすれば六千円説も出てくるかもしれない。

ところで相場の強弱に〝絶対〟というものがありえないのは、いま、去年と今年とを比較しても判る通りである。だから、また今から一年たってみれば、よくあんな安値で売ったものだなあということにならないという保証は何もない。

それだから相場はやめられないし、損をしても面白いものである。

売りであっても、買いであっても、勢いの強いときはそれが〝絶対〟であるかのように見える。しかししょせんは長く続くものではない。

まして、まだ収穫までに幾多の難関(旱魃、台風、病虫害、早霜など)があるのに、そうそう何時も周囲の条件が弱気に味方し続けるとは思えない。

日柄も充分だ。値ごろも大体とどいている。投げ物もこの二、三日、大分出たようだ。

天候などの急変で地合いが一変する可能性のある場所まできている。

●編集部注
長く(といっても諸先輩方に比べたら短いが)相場の世界に身を置くとこんな経験、一度や二度は経験した事がある。

筆者は小豆相場でなく東京金相場であった。

買っても、買っても、某商社が売ってくる。

千円を割り、九〇〇円も割れた。まさに「もう」は「まだ」なりであった。

【昭和四七年八月一日小豆一月限大阪九三三〇円/東京九三四〇円】