昭和の風林史(昭和四七年八月十四日掲載分)

亡霊みたいな 掴みどころなし

買い方の怨の精霊をさらりと流すことができるだろうか。供養をしなければならない。

「流灯の一つゆく闇後の闇 麦丘人」

小豆相場は新安値に落ちて、これで投げ物が出るようなら、前週末の〝星〟が捨て子になろう。

開花最盛期に入っての高温は決定的豊作を裏付けるもので、ある程度の作崩れを期待していた人々に〝絶望〟の止めを刺したようだ。

また外国産小豆の定期市場での格差拡大が輸入小豆業者の反対にあって、結論が出なかったことも嫌気されている。

ともかくひどい相場である。投げて投げて、投げる。それでも、まだまだ相場は安い。もういいというところがない。

こういう相場は十年ほど昔にあった。

五、六千円の小豆が八千円になって、大相場だ市場があぶない―と騒いだものである。それが九千円になって、市場人は絶叫したものだ。その当時から物価は高騰している。五、六千円の小豆はあり得ない―という絶対的な自信が、すでに輸入小豆で崩れている。そして定期相場は七、八千円が現実となった。

これが相場である。そして、その相場も、大底が入れば、あとはどのような売り材料が出現しても下げない。否、逆に高騰に転ずる。

豊作に売りなしという相場が出現するまでの、それは過程である。

もう近いのではなかろうか。新値足の数を読む方法でも、近いことは感じられる。だから強気するというのではない。精も根も、およそよれよれに疲れた。痴呆症状である。

感覚は、しびれている。

手亡も強気した人達は声なしという厳しさだ。

気をとり直してみてもさて、この手亡を売ったらよいのか、買ったらよいのかまったくよりどころもない。悪いと見て売れば、存外な戻りがあろうし、長期方針で買えば、買った値からズリ落ちる。

おりから旧盆の休みときている。

地獄の釜の蓋もあく時である。買い方の怨を乗せて精霊の供養が行なわれる。灯籠に入るともしを手渡しぬ(虚子)。

小豆は、まだ安いかもしれない。止まって戻してもまだ売られる相場かもしれない。手亡は亡霊みたいな感じがする。掴みどころがない。

●編集部注
明らかに行間に相場心理の〝歪み〟が感じ取れる。簡単に言い換えれば値動きに動揺している。

ただこんな時は経験則の深さが未来を照らす。

パイロットの熟練度は飛行時間の長さに比例するが如く、相場師の熟練度はどれだけ相場に対峙したかに比例する。

【昭和四七年八月十二日小豆一月限大阪八七三〇円・一六〇円安/東京八七八〇円・一二〇円安】