昭和の風林史(昭和四七年八月二十五日掲載分)

売り余地ない 手亡も下値頑強

小豆も手亡も、今の値段から下は、実に堅い。売り余地のない相場になっていると思う。

「秋草やすがり得ざりし人の情 登四郎」

手亡の新穀六千八百円。小豆の新穀八千五百円。

このあたりは、いかにも値段が堅い。

従って、そういうところを仮に売ったとしても、儲かるかどうかは、疑わしいのである。
さればと、ここを買って、買った玉に利が乗るかどうかは、時間をかけてみなければ、なんとも言えない。

本年の天候相場も、はや終幕に近い。なんという盛り上がりもなく来てしまった。手に汗握るという投機家の感情が、極度に緊迫する、あの興奮状態がなかった。
それだけに、もの足りなさを誰彼なく持っている。

あまりにも一本調子だった。天候が順調すぎた。しかも春の交易会で中国小豆が大量に契約されたあとである。

今からふり返れば、売りっぱなしの建て玉を持ってさえおれば、なんの苦労もなかったのである。

では、済んだ事は済んだ事として、これからどうすればよいか。

小豆の八千五百円。手亡の六千八百円。今からでも売る手が残されているのかどうか。それとも、このあたりなら買って、下がる気づかいはないものか。

さらに、あくまで小豆の思惑に絞っていくべきか、小豆は見むきもせず手亡に力を入れるほうが面白いか。あるいは手亡に重点を置き、四分六、七・三の割りで思惑するか。

これからの材料は早霜である。鎌入れ不足という事も考えておくべきであろうが、小豆が国際商品化している昨今、秋の交易会のことも考える必要がある。

ともかく今の穀物市場は空虚で、中心点がない。大きく戻せば売っておけばよい―という一般的な考えが支配している。

線型、そして過去の相場実績などから判断すれば、下げ続けたあとの下げ止まりは、一応、表面に買うべき材料が無くとも拾ってみるべきであるということは相場常識であろうが。

気がつけば、八月ももう納会がくる。この納会接近で、期近限月が、どのような動きをするか。需要期を控えているだけに、今までのような事はないかもしれない。値段が締まってくれば、全般の空気も硬化してくるように思うのである。

●編集部註
 この記事の二年前、フランスの哲学者ロラン・バルトが『表徴の帝国』という本を出版。彼はそこで皇居を「空虚な中心」と評している。

 記号論と相場の世界は、遠いようで、存外近い存在なのかも知れない。

【昭和四七年八月二四日小豆一月限大阪八六七〇円・一一〇円高/東京八七三〇円・八〇円高】