昭和の風林史(昭和四七年十一月一日掲載分)

閑閑新ポ閑閑 売りっぱなしだ

持ちも下げもならない相場で強弱を垂れることほど、たいくつなものはない。新ポ閑閑。

「山柿の五六顆おもき枝の先 蛇笏」

小田徹社長の豊栄物産の黒板に〝知恵のある者は知恵絞れ。知恵の無い者汗絞れ。知恵も汗もない者、やる気のない奴〟(やめてしまえとは書いてなかったが)―。いや本当だ、やる気のない奴、やめてしまえでよいのだ。小田さんもなかなかやっている。彼は豊商事の専務だった。天下の豊の専務の職を、さらりと辞めて独立した。この店の名前は、豊商事と協栄物産から、一文字ずつ取って付けた社名のように思うのは、小田氏のところに協栄の前社長だった高橋茂氏が入社したからで、もともとこの豊栄物産という名前は豊や協栄が出来る前から北浜にあった。

いま九州で事件になっている㈱豊栄(いわゆる九州豊栄)も、昔の糸をたぐれば同根であるが、現在はなんら、かかわりあいがない他人である。

さて、きょうは十一月の新ポ。相場のほうは安くなるまで待とう、ほととぎす。読者もすでにお気づきの如く、当欄、書きようがなくて難儀している。こういう時に風林の目にとまったら災難だと思え。博康先生は大変ご立腹だった。『真面目にやれと言ったのは君じゃないか。あれだとまるで小生が言ったみたいに受けとれる』。

足柄山と大江山からそれぞれ出てきたような風采の人物を左右に配して、神部茂氏が田山の山本社長の席でかしこまっている。『きょうの席は全協連の山本ではありませんよ。田山の山本としてお席をつくりました』。その席に小生も呼ばれた。

つい今しがたまで、お隣のお座敷に神部氏のしつらえたお膳で、お昼から御(ご)酒(しゅ)をちょうだいしていて、その少し前は西田昭二氏が大きな声でまくしたてているのをふり切って別れてきたばかりだから、友人藤野洵君も頭がガンガンすると言う。

小生はすでに天下の形勢が、どうなっているのか、さっぱり判らなくなった。彼の頭の中でガンガンする音が僕に伝わってきそうであった。

ともかく、相場が閑で強弱の書きようがないのが幸いなのか、十月は、わけが判らないうちに過ぎにけり。そしてこの一カ月のあいだにパーティーが五ツもあった。さあ十一月。お酒ばかり飲んでもおれない。

●編集部注
 この記事から四十二年が経過。執筆人は既に故人となり、業界は…。

 「パーティーばっかりやってたから業界がおかしなっとんねん!」と、筆者の近くで嘆く声が。

 暴言も甚だしいが、あながち間違いでも…。

【昭和四七年十月三一日小豆三月限大阪八五九〇円・七〇円高/東京八五〇〇円一〇円高】