昭和の風林史(昭和四七年十二月十八日掲載分)

高ければ売れ 安ければ見送り

小豆も手亡も年内逆張りという見方が多くなった。そうなるとまた相場は皮肉に動いたりする。

「おでん屋に溜る払も師走かな 草城」

目の前に当限納会が来ている。そして来週の木曜日には大納会。

今年もいろいろあったが終わろうとしている。

今はまだ感慨にふけってなどいられないが、焦燥が諦めにだんだん変色している段階に入る。

なにもかも、うまくいったという人も多いだろう。買った株は三倍になり、商品の建て玉はどこを手仕舞っても利食い。儲けたお金の一部で現引きしてもよいし年末年始のゴルフの予定も旅行のスケジュールも決まったし、事業のほうは、なんの心配もない。銭をもっていても仕方がないから人気作家の油絵でも買って―などと。

いや、手形は次々回ってくるし、ボーナスを支払うあてはなし、

給料もどうなるか、家の中には病人が出るし親類が交通事故でこの忙しい時にお葬式だ。そのうえ訴訟は起こされるわ、住んでいる家も年内に出んならん、追い証の請求はきついし、玉を切れば決済せんならん、いやもう枝ぶりのよい松の木でも探さねば―なんて言う人もないではない。

世の中さまざま。ツイていない時は無理しないこと。中国の古い言葉に「得意のときすべからず首(こうべ)を巡らすべし、逆境のとき手を拱いて放つ勿れ」というのがある。

鐘紡の津田信吾氏は「事業には断じて行き詰まりはない。逆境の時といえど智慧と儲け口さえ行き詰らなければ事業は行き詰らない。いわゆる才覚に行き詰まる人は事業をやる資格がない」と言った。

相場の世界は順、逆の波動が著しい。そのつど有頂天になってもいけないし、悲観絶望は尚更よくない。

さて高いかと思えば安い。安いかと思えば高い。手のよいお人は縫うように面白いだろうが、お手手が悪いと〝いすかのはし〟だ。

判らん時は休め。休んで遠くから見ておれば、また判りやすくなる。

そのような事、百も承知でわかっているが、判っていて出来ないから相場はおもしろいものである。誰も彼(か)もが悟った境地になってしまえば相場にならない。

年内、小豆も手亡も逆張り。大方の人の見方がそのようになった。相場はそうなるとまた違った皮肉な動きをするものだ。

●編集部注
休むも相場は明言だ。

相場を張っていて一番精神的にきついのは逆張りかも知れない。日に日に悪くなる値洗いに、どれだけ耐えられるか…。

【昭和四七年十二月十六日小豆五月限大阪九六一〇円・一二〇円安/東京九六五〇円・一〇〇円安】