昭和の風林史(昭和四八年一月二十六日掲載分)

異相の相場師 彼が時代である

小豆相場に数億、数十億円のインフレヘッジという性格の資金が流れ込む。一万五千円はあろう。

「麦の芽に汽車の煙のさはり消ゆ 汀女」

小豆の買い主力、異相の相場師桑名の人は、豊作だったから小豆が有望だと思ったと軽く言う。

『株式相場でも小型株は騰がらず新日鉄のような超大型株が騰がっている。これは数十億円を持っている人たち、あるいは某企業法人がインフレヘッジのために買っている。ですから私は手亡のような小量の商品は駄目で、今の時代は大量の品物のある商品が本命だと信じている。

北海道の生産者も一万円そこそこの小豆では気の毒であり、生産意欲も湧かない。私は北海道の生産者の事を思って小豆を買っているのではない。私は私の狙いをつけたゲームに勝ちたいがために私の限界を追求しているだけで、それが私の生き甲斐であり、人生なのです。もちろん業界にご迷惑をおかけするような事はしないし、煽ったり、叩いたり、過去の相場で、いわゆる仕手本尊が駆使したようなテクニックも、私には必要でないし、私の好むところでもない。

私はただ、小豆という商品が安いと思うのと、今年の天候は悪いという思惑で買う。従って誰がどうしたこうしたなどということも、取り組みがどう、ケイ線がどうということも、まったく気にしない。そして、どこで逃げるとか、幾らまで持っていくなどということも頭の中にはないのです。私は一路、ひたすら安いと思うあいだは買う。現物も二十万俵ぐらい持ちたい』―。

筆者は、この人物、物差の目盛りの刻みが、だいぶ違うな―ということを感じた。そして、業界は彼の考え方を、なかなか理解出来ないだろう―とも思った。しかし今や時代は、彼のような考え方を当然の理としている。

豊作だから売る。

豊作だから買う。

その見解の相違は、その人の所有、あるいは運用可能な財産、資力によって違ってくるものだとも思う。

彼は、行くところまで行くだろう。彼が相場であり、相場が時代である。そして時代は、その時代に必要な人物を生む。

桑名の異相の相場師が一に信条するところはイレ、投げの見切りが綺麗な事であり、また息の長い攻めのきついところである。

小豆相場は大勢的一万五千円も付けられる環境になりつつある。

●編集部註
 「相場が時代である」とは実に趣き深い言葉だ。

 時代の寵児は、その時代の終わりと共に消える。初めは賞賛して持ち上げ、最後には残酷に叩き落す。

 罫線でいうと「三空叩き上げ」のような相場か。

【昭和四八年一月二五日小豆六月限大阪一万二一四〇円・変わらず/東京一万二〇〇〇円・九〇円安】