昭和の風林史(昭和四八年六月十五日掲載分)

手亡も末期だ 小豆に力はない

こういう相場も一種の客殺しである。小豆、手亡とも凄(せい)惨な下げ過程にはいるだろう。

「鮎走る見えて深さの測られね 種茅」

アメリカが大豆など輸出規制を打ち出しそうなことから手亡が続騰した。

朝寄りの小豆はS安に放れたが、二節、早くも千円高に買われるなど、その動きは激しい。

S安とS高をその日のうちに付けると値幅千四百円となる。ところがS安に寄って次にS高をして、もう一度S安に下げて、あとS高で引けたら、こりゃおもろいデ。そんな殺生な。いや、あり得ることだ。

もう判らんと嘆(なげ)く。最初から判らんのである。もう判らんというのは〝いい格好〟しいである。どないになるんや。

六面体のサイコロに赤い字のS三ツと、黒い字のS三ツを刻み込んで、取引所の市場の真ん中に、白布をかけた机を置いて、市場管理委員長がコロコロと転がす。各場電、出ました色はなに色でしょう、はい赤でした―などとやれば立ち会いも早々と済む。

こんなことをしていると穀物取引所は社会的に信用を失うだろう。

と申して、建て玉を制限し証拠金を大きくし、業者の自粛をうながすしかない。見ていると、かなり熱くなっている取引員経営者がいる。世間は、相場を煽ったり売り叩くことも、客殺しの一種と見なすであろう。

相場としては末期的症状である。

仮りに小豆が全限新高値に持ち込むところがあっても、それは大暴落への前ぶれでしかない。

高水準で大きくゆさぶっているうちに、相場は日柄を経過して疲労してこよう。

手亡は一万五千円だという。一部特定の、しかも市場の有力者が、品薄を狙って相場操縦まがいの価格操作をしていることは知らぬ者はないだろう。

大豆ならともかく、小豆は絶対的な生活必需物資ではない。まして手亡となれば、もっと特殊な商品である。手亡があろうとなかろうと大したことはない。だからバクチの道具にしてもよいという理由はない。

しかし実需から遊離した大手亡など定期でぶちあけるしかない。S高五百丁幅で三発、四発をナンピン売り上がれば次は連続S安のストレート下げである。

すでに小豆は頭を打っている。手亡のこのあたりからは売り絶対であろう。

●編集部註

売り方の鼻息荒らし蛎殻町―と、川柳の一つも読みたくなるような空気が行間から読み取れる。

【昭和四八年六月十四日小豆十一月限大阪一万七四九〇円・五〇〇円高/東京一万七六五〇円・三四〇円高】