彼岸ごろまで 売られる相場だ
僧侶はいそがしい。S安の供養もしなければならない。地獄の底まで崩れる相場だ。
「蜩や鳴きやむ方の石燈籠 宇白」
お盆にはいると、お寺さんもいそがしい。ヘルメットをかぶってオートバイで檀家をまわっている。
船場界隈本町周辺は、ひっそりしている。十三、十四、十五日と軒並み休業の張り紙がしてある。喫茶店まで盆休みである。いつもこみあっている道路も日曜日のように静まり返っている。
相場のほうは読経の中をS安している。地獄の釜の蓋もあいている。落ちるところまで落ちる格好だ。うかうかしていると五千円下げになる。
なんともよろしくない相場。これで規制が緩和されたら下げ足は見るも無残、先元の一万三千五百円なしとしないだろう。
産地の状況は、なにもかも順調で、平年作はまず保証の保の字である。
インフレ人気の会も言ってみればセックスみたいなもので情欲が燃えて狂っているときは手がつけられないけれど、済んでしまえば燃え方が激しかっただけに倦怠感がそれだけ大きい。インフレ買いの疲労感というものを相場に感ずる。
取引員の懐ろは顧客に売られている。売られた取り組みで下げてくるのだから悪性だ。
下げろ、下げろ、下げろ。地獄の底まで下げろ。そうすればまた買い場が出現する。
千円棒は四千円幅を黒黒と垂れている。
46年の増山相場の時は10月11日から11月4日まで五千三百円を一本棒で落としている。
恐らくこの相場も五千二、三百円は棒落としであろう、一万三千七百円あたり見ておいてよい。
もちろん買い方の反撃もあるだろう。
しかし今となっては凄さというものがない。
むざんな兜の下のきりぎりす―松尾芭蕉は古戦場にさびて転がっている兜を眺めてむざんやなと一句吐いた。夏草はぼうぼうたり。
相場が相場らしくなってきた。
戻り売りである。
S安S安で、さらんぱらんとほどけていく。
彼岸ごろ底になる。
漂泊の詩人・山頭火なら「相場が供養されている」「悪い相場を売っていた」「買い方の泣く夜かな」と、やるだろう。
●編集部注
相場様は意地悪であるが故に〝下げろ、下げろ、下げろ〟と唱えている間は左程下がらぬ。夢見た途端に下がり始める。
上ヒゲのみの十字線を〝塔婆〟と呼ぶ。この記事の約一カ月後、この相場に塔婆が立つ。それまでの文の流れにご注目。
【昭和四八年八月十三日小豆一月限大阪一万五一三〇円・七〇〇円安/東京一万五二九〇円・七〇〇円安】