しばしのおやすみ(日刊版06月28日付)

しばし執筆をお休みする。来月からは、まだ小豆が元気だったあの頃の、文章を載せていこうと思う。

五月雨の降のこしてや光堂  芭蕉。

体調が優れない。

甚だ、不本意ではあるが、しばらく執筆をお休みさせて戴こうと思う。

鎧橋を挟み、西が証券取引所。東が商品取引所。東も、西も、ともに往年の勢いはない。

この五十年、商品業界、いや、相場世界全体が変わった。「赤いダイヤ」の時代は、今何処…。

蛎殻町にあった穀物取引所は、既に跡形もなくなった。マンションが建つのだという。

隣にあったカネツ商事ビルもなく。向かいの明治物産も、商品取引の看板を持っていない。

その昔、ここは多くの相場師が往来を闊歩していたのですよ。そう今の人にいっても、吃驚されるだけであろう。

東京がそんな状態である。北浜、本町、阿波座…。喧騒の時代は、もう、忘却の彼方に。

小豆全盛の時代、相場も、それを取り巻く人物も、何かと大きかった。

五十年近く、風林火山を書いてきた。昭和の風林史と題してもらおうか。

懐かしのあの人、この相場師など、たくさんのこの時代を飾った人も出てこよう。

振り返ると、昭和の風林火山は火の気も、血の気も多かったような気がする。

喧嘩もいっぱいした。業界から、不買運動を起こされた時もあった。

一度だけ、この欄を白紙で掲載したことがある。何時だったか。

小豆相場で大ヤラレした時であったか。白旗を掲げて降参したときだ。

そこで、当欄の休載中は、暫く「昭和の風林火山」を振り返ってみようかと思う。

当時の小豆、いや商品には魔力があった。

来月からの当欄は、魔力よ、現代に蘇ってくれという、私からの応援歌と受け取って戴きたい。