つれづれなるまゝに

本日、風林翁は夏休みでございます。誠に僭越ながら、一筆啓上仕り候。
つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
平凡の非凡とでもいうのであろうか。一見何気ない物事をつれづれなるままに書いた上に、あまつさえ、相場の動きまで伝えるこの欄を書き進めるという事が、如何に難しい事か。
己の感受性が、知らず知らずのうちに、かなり錆び付いている事に気付いて愕然とする。
と、ここまで書き進めている間、何度か手が止まる。両手をかざして、キーボードに念を送っているかのような状態に、苦笑いしてしまった。
恐らく論理力の欠如なのだろう。世々を経て、その必要性を痛感する。
人は情報を集め、頭では理解できても、それを貯蔵し、分解し、発酵させ、新たな思考や戦略を生み出すにはそれ相応の鍛錬がいる。
学校でも読解力を訓練する事はあっても、論理力を高めるような授業はついぞ教わらなかったような気がする。時代も、兎角二元論で考え、早急に答えを求めたがる風潮。良いか悪いか、勝ちか負けか、善か悪か、上か下か…。
かくも熟慮なきやりとりが、物事や人の器を、小さくさせているような気がしてならない。
古来、大人物は清濁併せ呑むという。そんな人物が最近いない。
いや、FRB議長がいた。あの御仁は、相当狸だと思う。あの講演は所詮、ストリップ劇場の額縁ショーと変わらない。
木戸銭さえ獲れれば、あとはこっちのものだ。