秋底確認で小豆軽やかに
小豆の足の軽さは、ただごとでない。このような相場を弱気すると大怪我します。
小豆相場が急変した。
夜放れ上寄りして伸びきった力は、ただごとでない。
このような場合は理屈なしについていくのが本筋。
きのうまでは、きのうまで。きょうからはきょうである。
相場が変わったのに、きのうまでの強弱を、引きずっていたのでは、相場に勝てない。
十月1日安値は、七月19日安値に対して両足つきの二点底だった―ということになる。
悪材料も織り込んでしまった―というわけだ。
そして天高く底を買いたい秋底であった。
薄商い続きで売り込みが足りない気もするが、むしろ、この上げ過程で売り込んでくるのかもしれない。即ち戻り売り人気。
どのあたりまで行くかといえば十月1日安値から三千丁高近辺。
小豆は腐っても鯛である。小豆に人気が寄らなければ商取業界活気が出ん。
来月は待つこと久しい六限月・全艦揃う。
司馬遼太郎が『菜の花の沖』で吸う息、吐く息が細くなると人間、萎(な)えてしまう―と。
わが小豆業界に限らず商取業界全般は、なんとも息をひそめて、段々影が薄くなっている。
大きく息を吸って、はきださなければ業界が萎えてしまう。
この小豆、売るべからず。押さば、買いあり。
輸入大豆は当限内部要因(売り過ぎ)が踏み終わると品物はないない言ってもあるのだから実勢不振に逆らって指し過ぎれば、相場には勝ったが、勝負に負けた―ということになる。
買い大手としては、このあたりが潮時でなかろうか。煎れの出た相場は、魂の抜けた、むくろのようなもので、あとは買うほど重くなる。
●編集部註
〝売り込みが足りない気がする〟とは鋭い。まるで潮を見る老練な漁師か百戦錬磨の船商人の言葉のようである。
今となってはチャートが残っているので、この読みが正しかった事が既に分かっている。
唐突に司馬遼太郎の『菜の花の沖』が登場するのは、この小説が1979年から82年1月までの間、産経新聞に連載されていたからである。
昔、新聞連載ものは一大コンテンツであった。
古くは大正時代に朝日新聞が連載していた夏目漱石の「こゝろ」が有名。日経新聞に連載されていた渡辺淳一の「失楽園」もこの系譜に入る。
いわば、当時の人達の「共通言語」である。