昭和の風林史(昭和五四年十一月八日掲載分)

小豆が業界象徴 いずれ手亡になる

今の小豆相場は、商取業界を象徴している。業界は将来、手亡相場みたいなものになろう。

「テヘランの街頭売のざくろかな 芳浩」

一種の管理相場である小豆を、どれほど真剣に考え、取り組んでみても、当業筋ならいざ知らず、大衆投機層には、遠いところのものになっている。

かつては商品取引の花形商品であった小豆である。時代の変化や、生産・流通経過の変動で、小豆相場は、年に一度の天災期だけ関心を寄せるシーズン銘柄になってしまった。

すでに大手亡豆相場は、取引所市場で機能しているとは思えない。値段が付いている事は、とりもなおさず機能しているのだ―と言うならば、それはそれでよい。

しかし、ヘッジが出来るだろうか。わずかな売り物、買い物で騰落がきつい。大衆投機家は市場を見はなしている。

大手亡豆は、やはり生産量、取引所供用品、格差などの面から、取引所上場商品としての資格を失った商品である。

その現実を最もよく知っているのが、ほかならぬ大衆投機家である。

商品市場の投機家は品物が欲しくて買うのではない。品物を持っているから売るのではない。価格変動による値ザヤ取りを目的とする。従って、投機妙味のないものには手を出さない。

取引員側にとっては投機家が手を出さなければ経営が成り立たない。

いまは、無理な商いをすすめるわけにいかないから、自然、自社玉のウエイトを高めなければならない。

この自社玉は、取引員経営にとって必要不可欠な経営手段である。昔は自社玉ポジションがベールに包まれていたから一般大衆には判らなかった。今は取引所が発表しなければならなくなった。

ために大衆の知るところとなり、相場判断の重要な資料にもなっている。

自社玉が、必らずしも利益を得るとは限らないが、自社玉の片寄り(小豆東西合計=売一四、一九〇枚・買四、九六〇枚)を見ては投機家としても考えよう。

思うのであるが、穀物に限らず、日本の商品市場は、なにか重大なことを見落しているのではないかと思う。

それは、役所も取引所も業界団体も、個々の取引員も時代の流れというものに取り残された思考と、失ってしまった決断と勇気。これではないかと思う。人気が離散した小豆相場の小高下を見て、小生はそのように思った。

●編集部註
 この提言は、正鵠をついていた。

 しかし、当時の識者や業界上層部、監督官庁のなかで耳を傾けた人物がどれだけいたか。今となってはあとの祭りである。

 ところで冒頭のテヘランという言葉は、この年の1月にイラン革命でパフレヴィー国王が亡命し、11月にテヘランの米国大使館が襲撃された事件を受けてのものと思われる。