昭和の風林史(昭和四七年一月二十八日掲載分)

 厳粛白旗掲ぐ 読者諒とされよ

「寒灯にわが大いなる手くらがり 立子」

(以下白紙)

*WEB版をご覧の皆様への解説

この日の風林火山は、たったこれだけである。
蛇足だが「読者諒とされよ」という文章は、
「読者の皆さん、どうかお察しください」という意味があり、
その後自身の心境を、俳人高浜虚子の次女である星野立子の句になぞらえている。

2014年2月14日付の投資日報では、同時の紙面を掲載するとともに、
以下の文章を寄せた。

●編集部注
 ひとかどの人物は負け戦でその名が一段上がる。
 三方ヶ原の戦いにおける徳川家康。
 関が原の戦いの退却線上における島津義弘。
 そして、昭和四七年一月二八日号の風林火山。
 白旗だけに白紙記事。これ以上、簡潔に相場の敗北を宣言する手段はない。
 当時の読者の驚きたるや、如何ばかりか。この記事を切り取って、保存した外務員もいたという。
 この掲載で投資日報、そして鏑木繁の名前は一段上がった。この時、四十二歳になったばかり。
 この日の投資日報が発行されて、その約二週間後に生まれた人間が今、この文章を書いている。
 同じ水瓶座生まれ、四 十二歳になりたて。我が身に置き換え考えてみる。
 同じ事が出来るのか。
 出来ない。出版界で、これはありえない所業だ。
 過去、宮武外骨が同じ事をしたとか。風林火山はこれを知っていたのか。
 風林火山以降、同じ事をした人が筒井康隆だ。昭和五一年に、彼が編集長を務める雑誌で、タモリからの原稿が締め切りに間に合わず、4ページ白紙のままで出版した。
 理由は色々だが、過去これくらいしか例がない。
 【昭和四七年一月二十七日小豆六月限大阪三二〇円高/東京二五〇円高】