自然の相場へ 仕事師たち壊滅
相場には自律反騰というものがある。仕事師たちは、たいがい潰れた。自然相場の姿に戻ろう。
「新社員電話づかれにひと日了ふ 伊津夫」
〝悪い奴っちゃ、悪い奴っちゃ〟―という声をよく耳にする。騙した、騙されたは相場社会の常。騙した奴が偉いのか、騙された奴が悪いのか。
仕手相場とは狸と狐の化かしあいである。仕手たらんとする者は大きな嘘と小さな嘘を、たえず持ち合わせていなければならない。それは、あたかも武士の両刀の如きものである。
裏切り、抜け駈け、抱き落とし、即ち日常の茶飯事。それを騙されたからと文句を言っても仕方がない。あっしにはかかわりあいのない事でござんす。
納会は受け手が無いと誰もが言う。韓国小豆ばかり渡してこようという評判。だから納会は九千五百円以下かもしれない。そして四月は豚も、そっぽをむく台湾小豆のぶちあげで、これまた悪い―と。
市場の人気は、強気は強気、弱気は弱気で、ビギンザビギン。戻り場面を売ってさえおけばという常識的見方。いや、このあたりで一万二千二百円ないし一万二千八百円あたりまで先限で自律反騰のあるところだという見方。
筆者は、反騰があると見ている。だから曲がり屋の境から脱出できないのかもしれない。
万円割れで、ここから下に二千丁。そうは下げない。ものには限度がある。叩いて崩して八千五百円ならここから下に千五百丁。
そういう下げがあれば、もとより倍返しの三千丁高につながる相場だ。
一月12日の一万二千九百円安値から二月12日の一万六千九百三十円までの〔四千三十円高〕を一月12日起点から下に叩いて四千三十円安は八千八百七十円地点。
弱気する以上は、先限でその値段を目標にする。
三千丁が五千丁。五千丁が六千丁。こうも引かされた経験のある人は、そのあたりに幾らでもいる。聞いてみるがよい。チトップ、チトップ、もうなれっこで、あと千円下げようと、千五百円安だろうと五十歩百歩さ。
左様、焼けているのである。失神相場で失神して腰も抜けている。玉は切られ月末迫る。斯の身飢うれば斯の児育たず、斯の児棄てざればこの身飢う。捨つるが是か、捨てざるが非か―。
手亡が本当の底値に達したような顔つきだ。その面からも小豆は止まるところに来ているように思う。反騰の可能性ありと見る。
●編集部注
『…だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。…「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである』。
―― 伊丹万作『戦争責任者の問題』より抜粋
相場もまた戦争なり。
【昭和四七年三月二四日小豆八月限大阪三三〇円高/東京三九〇円高】