昭和の風林史(昭和四七年九月十九日掲載分)

この秋は何で 飯食う豆屋かな

台風まで、へきえきして顔をそむけた。こういうことも世の中にはある。澄んだ秋空がねたましい。

「はたはたも短くとびて野路親し 風生」

あるいはと、テレビの台風情報を見ていて小豆や手亡の相場の事をすぐ考えるのはどうかと思ったりするが、相場する人なら、やはり20号台風の針路と、北海での豆類の被害を気にしないわけではない。

月曜の相場は、なんということもなく呆(ぼん)やりに寄り付いた。買い玉を抱いている人は、抜けるような青空を眺めて、ああ、これがもう一カ月早く来ていたならば―と、長嘆息。

世の中、ままにならない。

そして、明日は、お彼岸の入りである。

京丹穀物の田中育造常務は『ぼつぼつ売れ行きはよくなっているが、先ものが安いので入用買いしかしない。北海道産の新穀は欲しいのだが、おっかなへっぴり腰で、一車買っては売り、一車買ってはさばくという、こわごわで、まったく仮需要というものは出てこない』―。

確かに先安人気が充満しているから、実需筋も必要最低限度のものしか手当てしないだろう。時は金なりという言葉がある。一日待てばそれだけ安いものが買える。もう少し待て、もう一日待て、あわてることはない。

これが上げ基調の時なら、時は金なり、先に行ったら高い、不必要なものまで買っておこうという需要が市場人気をさらに刺激する。

台風20号が通り過ぎたあと、少しぐらいの被害は出ているだろうが、収穫百八十七万俵(予想)から一割欠けたところで大勢に別条はない。

市場人気は、仮りに降霜で、被害を伝えて買われたところで、絶好の売り場になるだけだという野も山も弱気一色。

手亡のほうは、小豆がこんな値段では、輸入の外貨が白系統のほうにまわって、ピービーンズなどの圧迫がいずれ表面化する。戻したところは売ってさえおけば結局ものになるという見方。

気の利いた人たちはすでに毛糸や生糸の相場で活躍している。

鳩も烏も飛んでしまったあとの穀物市場に毒々しい彼岸花だけが咲いている。むらがりていよいよ寂しひがんばな(草城)。むらがりて―は豆相場中毒患者のことか?。

●編集部注
彼岸天井、彼岸底という言葉は、古くから使われるアノマリーだ。

毎回当るのであれば、それはアノマリーではない。法則であり習性だ。

逆説的に言えば、たまに外れるからこそのアノマリーである。
 
皆が期待していない時の方が何故か見事に当てはまるから性質が悪い。
【昭和四七年九月十八日小豆二月限大阪七八〇〇円・八〇円安/東京七七九〇円・一〇〇円安】