昭和の風林史(昭和四七年九月十八日掲載分)

閑散におもう とりとめもなく

手亡の相場の安いところを気長に拾っていくという方法。それとも小豆の戻り待ちの売りか。

「草の実や足になじまぬゴルフ靴 総彦」

閑散な場面が続く。なんとかしたいが、なんともならない。祝日と日曜のあいだにはさまった土曜とあっては気も乗らないし、窓外は台風20号にともなう雨で室内の冷房が肌寒い。
北海道のほうは豆類の登熟が例年になく早いそうだ。十勝地方は、出回りが遅れるのではないかと懸念されていたが、逆に早くなりそうだと伝える。

農林省の14日の道産豆類収穫予想は小豆が反収二・八二俵の一八七万俵。電話番号などでよく覚えやすくするため数字をほかの文句にこじつけたりするが、あの式で言うなら一八七万俵はイヤナ数字である。

手亡が反収三・一五俵の五十三万俵。

毎日新聞の夕刊に井上靖氏が〝幼き日のこと〟と題する連載小説を書いている。旭川時代のことが出ている。田山の山本博康氏は旭川中学で、お酒を飲むと、時々昔のことを話される。本籍地は豊商事の多々良社長と同じ島根県であるが、旭川中学から東亜同文書院の入試試験を受けて、合格者は東京見物、名古屋見物、京都見物と東海道を下って、神戸から船で大陸に渡った。あれからもう五十年たった―と感懐深げに盃を手にする。京都では木扁に冬という字の旅館に泊まって、今思うと柊家だ。立派なところに泊まらしたもので、市内見物は一人につき一台の人力車だった。便所が水洗式で、あれにはびっくりした。水が止まらないものだから。

などと、お昼から阪急ターミナルビル十七階のお寿司屋のカウンターで、遠くに煙る淀川の流れを見ながらやっていると、幼き日の博康先生が彷彿と目に浮かぶ。

小豆、手亡の収穫予想から井上靖氏の旭川、そして旭川から博康氏―。男児志を立てて郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも還らず、骨を埋むあに墳墓の地を期せん、人間至る処に青山あり―相場について興味が薄いものだから、連想が、よそのほうに飛び散ってしまう。こういう雨の日の冷房が背筋にひんやりする時は、少し熱燗のほうがいいな。

そうだ人間いたるところに青山あり。

●編集部注
商品相場の難しさは、ファンダメンタルのロジックが必ずしも目先の相場変動のファクターにはならないという事だ。
 
先日、ラジオのパーソナリティーが、今年の天候異常でさぞかし小豆相場が上がっているだろうと思って調べたら下がっていてビックリしたとしゃべっていた。

【昭和四七年九月十六日小豆二月限大阪七八八〇円・変わらず/東京七八九〇円・五〇円高】