昭和の風林史(昭和四七年九月四日掲載分)

秋風虚無千里 日暮れて道遠し

八千円割れの小豆を買って損するようでは世も末である。場面は日暮れて道遠しというところ。

「高麗の壷の寂光糸すすき 行一郎」

どう、ということもない小豆相場だし、なんということもない手亡の相場である。

下げるだけ下げだ後の涙も枯れた下げ疲れ。まあこのあたりは豊作の値段であろうが。

古詩十九首の第十四に「去る者には日日に以て疎く、来る者には日日に以て親しむ。郭門を出て直視すれは、ただ丘と墳とを見るのみ。古墓はすかれて田と為り、松柏はくだかれて薪と為る。白楊悲風多く蕭蕭として人を愁殺す。もとの里閭に還らんことを思ひ帰らんと欲するも道因る無し」。

去る者、日日に疎しの感を強くし道因るなしの小豆相場といえよう。税務署と豊作には勝てないのである。古来唯見る白骨黄沙の田。

手亡は減反でワッと買った値段から七百円下げ。しかし六千八百円どころは抵抗がある。この値段を売ってもモノにならない。さりとて七千円台は、売りあがればよいという限界の見えている相場。

こんな調子だと、だんだん電話料金が気になることであろう。注文も出んのに長い電話することなどない―などと言いだす。

六限月になり、そして大幅減反。小豆が駄目なら手亡でいけ。手亡は金のタマゴだ、花形商品だと期待していた人たちは、完全に裏切られてしまった。

小豆や手亡じゃ駄目だと生糸相場や毛糸相場に移動して行った人も多い。投機家は動くものに集中する。困るのは穀物単品の取引員である。

しかし、お客さんにこのあたりの小豆や手亡を買わせておけば、もう損する気づかいはないだろう。玉は建ったまま回転することはないけれど。いずれそのうち霜でも降れば、パッと逃げる。霜が降るか降らんかは運まかせ、天まかせ。

霜が降らんじゃないかとよもや紛議にはなるまい。

手亡の六千八百円。あと下げて二百円。小豆八千円。割ってよし、割らずもよし。八千円割れの小豆を買って大損するようなら世も末である。

おりから、大阪、神戸、東京の各穀取は来月開所満の20周年。業界沈滞不振の中での20周年記念とは、世の中どこまでも皮肉に出来ている。

●編集部註

 資本にお金を投じる人が「投資家」なら、機会にお金を投じる人は「投機家」となる。商機がないと投機家は動けない。

 上の文章の「穀物相場」の部分を「金」に差し替えると、今の相場を話しているように読める。

 昔と違うのは、金の替わりにシフト出来る商品銘柄が少ないという事だ。

【昭和四七年九月二日小豆二月限大阪八二三〇円・九〇円安/東京八二六〇円・変わらず