昭和の風林史(昭和四七年二月八日掲載分)

毎日毎節呻吟 天を仰ぎ長嘆息

売っている人は毎日毎節が暗い。天をあおいで長嘆息。悪い病気にかかっているのである。

「味噌を搗き居て早春の詩仙堂 雨城」

どこまでも〝ゆるむ〟ことのない小豆相場で、当面七千円目標(先限)が、市場の常識的値段になった。そしてその値段を付ける構えだ。

一月末の消費地在庫が、輸入小豆の大幅な増大という予測とはウラハラに十二月に比べて、それほど変わらなかったため、買い方の意を強くした。

市中は依然として浮動玉薄で〝輸入小豆圧迫相場〟から〝品ガスレ相場〟と性格が変化し、しかもクロウト巧者筋の駈け引きが実に巧妙にコントロールされ、さながら手のよい買い方は、日計(ひばかり)による〔鍬で味噌掘る〕格好である。

一方、売ったままの呻吟組は毎日毎節が暗い。誰に恨みを持つではないが天をあおいで長嘆息。踏むところがないのである。

いや、踏むところは幾らでもあったが踏めなかった。なぜなら、こんな相場見たことないからである。

そんな馬鹿なことが―という頭であった。それが、おやおや―となり、そして、これは案外―となって、もうたまらんというわけである。

買い方が、あの下げ場面で見るも無残に打たれその陣営は、まさに消え入るような状態にあった時の苦しさを思い知るのである。

相場は、売りに回るも、買いに回るも自由であるにもかかわらず、固執して身をひるがえすことが出来ず、キズばかり深くしていく姿は、あまりも愚(おろ)かであり、また悲しい。

その事に気がつき、目を洗って相場を眺めた時に、いまの小豆相場が、なんら疲れていないことを知るし、環境が持って回るように買い方に味方していることを感じる。

そして、悪い病気にかかっていた―と、気づいた時には、おうおうにして手遅れである。

病(やまい)は気から―とは、相場の場合、まさしく適切な言葉である。

相場は、新たな決定的材料の出現(それは中国小豆の輸入契約だが)があるまでは、今のような基調は変わるまい。

買い方は力がつき、自信をもった。逆に売り方は不運と衰弱がきつい。

押せば押したで相場は新たな力をつけるのである。

●編集部注
当たり前の話だが、この文章を書く上で、当方は既に相場の結果を知っている。その上で、風林火山には〝NGワード〟なるものが存在した。

〝鍬で味噌掘る〟という語句がそれだ。

理由はわからない。書いている当事者も、全く気付いていなかったろう。

紙面にこの言葉が登場すると、不思議と目先の相場が反転している。
 
数年前もそうであった。

【昭和四七年二月七日小豆七月限大阪四九〇円高/東京五二〇円高】