昭和の風林史(昭和四七年五月十一日掲載分)

売り方針一貫 気長に軟化待ち

大勢的には、あくまでも売り方針を一貫すればよいだろう。ここは戻すほど後が悪いジリ貧だ。

「名所絵の明治風景花菖蒲 風生」

これだけの在庫があるのだから―という発想で相場の先行きを考えるのが売りである。逆に、これだけの在庫があっても千円棒を立てたのだからと、現実を希望的に観測するのが買い方である。

あの見方、考え方。特に相場にあっては強弱極端に相反する。

強い材料(要因)があるから強気する。それが時間の経過に伴って「強気しているから材料を強気に解釈する」。この裏側が弱気である。弱い材料があるから売る。売っているから材料(環境など)を悪く見る。

いつも思うが、相場の解釈など、いとも勝手なものである。

また弱い材料、悪い環境だから強気する。この考え方が相場社会では結構筋金のはいった理論として通るのである。強気ばかりだから弱気する。

相場でなにが難かしいかといえば、〔迷わば休め〕でないかと思う。イレ、投げは、これは資金にゆとりさえあれば簡単な問題である。目をつぶって、ええいと投げる。あるいは踏む。あとがさっぱりとしてすがすがしい。

辛抱、これもそう難かしくない。よほどの、十年に一度というような大相場でない限り、案外辛抱する木に花の咲くことがある。

相場に中毒すると休むことができない。判っていて休めない。玉がないと淋しい。一種の病気である。中毒症状が進むと利の乗った玉があるよりも、ほどほどに引かされている玉を持っているほうが気が楽なのである。

利の乗っている玉を持っていると、なにか心の中が騒々しい。落ち着かないのである。その点、引かされている玉は、気が落ち着くと同時に、言うに言えない楽しみが残る。余韻というやつである。

そうはいっても、当たっている時、相場が見えている時、土曜日にも後場を立てたらよいのにと思ったり、日曜日にも相場があればよいのにとか、後場三節大引け済んでからも、もう一、二節立ってくれたら―などと欲なことを考える。引かされて曲がって弱っている時は黒板を見るのが怖いし、大引け済んだらほっとするくせに、なんと勝手なものだと苦笑せざるを得ない。

待つのも相場。休むも相場。それが出来るようになれば、たいしたものだ。

●編集部注
 不思議な事に、相場は負けている方が安心する。

 逆に利益が乗ると不安になる。少し利が乗るとすぐに利食いしてしまう。曲がり玉は何かと理屈をつけて損切りをしない。

 つくづく相場修行は人間修行であると痛感する。

【昭和四七年五月十日小豆十月限大阪一万一三七〇円・一二〇円安/東京一万一三九〇円・九〇円安】