昭和の風林史(昭和四七年八月二十四日掲載分)

目先を考えず 茫茫漠漠たらん

高かろうが、安かろうが、どうでもよいのだという気になる。目先の高下は考える必要がない。

「法師蝉煮炊というも二人きり 風生」

富安風生氏の、煮炊というも二人きり、この句が好きである。初秋から仲秋にかけて、つくつく法師が遠くで鳴く。秋来るの感が強い。老妻と二人だけの食事は簡素そのもの。話すことも別にない。淋しいことである。法師蝉は都会で聞くことも少なくなった。黄檗近くの、人里離れたあたり、裏庭に鶏頭など植えて、ひっそりと住んでみたいと思ったりするのである。鶏頭に隠れ栖むとも恥多し(康治)。

そのようなことを、考えたりするのも、なにかと、いろいろ疲れたからである。今年の夏の暑さ、所帯の苦労、相場の疲れ、そして対人関係など、元気な時は、さほど気にならなくとも、体力が弱ってくると、やはり、秋草にすだく松虫や、法師蝉に感慨をおぼえる。

そうなると、急に相場など、くだらないと思ったりする。いや、相場がくだらないのではなく、相場の高下に、ああだ、こうだと気を病む自分が小さく見えてくる。

相場が高かろうが、安かろうが、どうでもいいのである。そういうと、投げやりだ、無責任だ―と、すぐはねかえってくる。

そうではない。相場なんか、どうでもいいんだ―と思ったりする次元は、この場合、投げやりでも無責任でもなく、そういう突き放した茫然の境での悠久たるものの見方がしたくなる。

今年の小豆相場が、仮りに百八十万俵収穫で投機家筋に戒名身がなければないで、来年の相場を待つとか。手亡の七千五百円以上にはピービーンズのつなぎがあるのなら、もっと安いところで人気の変化するのを待つとか。

これから当分は、一時間刻みの相場の値付きに深いカンシンを持つ必要はない。一日の動きも、さほど重視することもない。一週間単位、すなわち週間棒だけ見ておけばよい相場である。

品物の豊富な時代の需給相場。そしてクロウト中のクロウト、すなわち現物中心に商売をする取引員が、ある程度まで市場価格を操作できる相場。その限りでは一般大衆投機家は、目先張りをしていては、どうにもならないと思うのである。

●編集部注
空を自由に飛びたいな。

ハイ、タケコプター。

そんなネコ型ロボットがいる世界に我々はいない。この世界は、決して意のままには動かない。

もし動かすとなれば、力技を行使するしかない。

大なり小なり。色々な舞台で力技が登場するが、必ずどこかで破綻する。

衰退というパターンもある。小豆相場などはその典型ではないだろうか。 

張る人がいなければ、賭場は開く事が出来ない。

【昭和四七年八月二三日小豆一月限大阪八五六〇円・二〇円高/東京八六五〇円・一一〇

円高】