昭和の風林史(昭和四七年八月十一日掲載分)

手が出ません 森閑とした相場

夏場のいちばん閑な時期である。高校野球に夏休み。小豆も手亡も森閑としている。

「蜩やながき話の苦の世界 波郷」

だいたい売り方の考えていた値段に近づいた。

あとは、ドカ下げ、すなわち買い方の総投げ場面で利食いするという段取りになるが、買い方は、ここまでくれば、なんとも渋い。

「金融が緩和されているからだろう」と首をかしげる。追証が順調にはいるのである。そうなると、この先、幾ら下げても、総投げ場面は、あり得ないかもしれない。

ぼんやり相場表を見るともなく見ていたら、なんとも風通しのよいのに気がつく。そういえば五桁から四桁になってしまい、時代が移り変わっていることを知らしむる。

この先も、あるいは今のような繰り返しが続くかもしれない。作況は申し分なく、納会が接近するごとに期近は崩れる。クズ豆を受けても、どうにもならないから結局定期市場は捨て場所になる。まるで輸入小豆は工場の廃液なみで〝公害〟をまき散らすのである。

前門の虎、後門の狼という。趙雪航に曰く門前虎を拒ぎて後門に狼を進む―と。

旧穀限月は台湾、韓国小豆の捨て場という圧迫。新穀限月は増反と順気。買い方は逃げ場がない。

結局このままでは全滅するしかないのかもしれない。硫黄島、サイパン、沖縄を思わせる。

手亡相場のほうはどうだろう。

御祝儀気分で限月延長を買った人たちは早くも七百円幅を引かされてしまった。
やはり買いついた取り組みと、作柄がよいという材料には勝てない。

新穀の六千五百円以下なら買ってみても、たとえ引かされたとして、深くはないだろう、という程度では新規に手が出ない。しかも全国高校野球がはじまって、夏場の超閑散期にはいる。

市場は、森閑としてしまった。

小豆をここから売って、果たして幾らあるか、という頭がどうしても抜けきれない。また、買うべき根拠も見当たらない。

手亡にしてもそうだ。ここから売って、幾ら取れるか。逆に、強気したところで目途の立つ話でもない。相場が転換するまで見送るしかないようだ。

●編集部注

相場は呼吸する。ガルシア・マルケスの小説のように、何年も雨が降り続けたり、逆に日照りが続いたりはしない。待てば、逆転の機会はある。

問題は、待てるか否かの話。大概、死ぬギリギリまで追い込まれる。

これが相場の面白さであり、怖さでもある。

【昭和四七年八月十日小豆一月限大阪八九二〇円・一〇円高/東京八九三〇円・一〇円高】