急騰は利食え 低落は買い拾う
相場は厳粛、神聖である。利のある玉は利食いする。これは相場に対する礼儀といえよう。
「やまももや熊野へ嫁ぎし人のうへ 三山」
五、七十円幅で安場、安場を買い下がっていく。千円ぐらい引かされてもかまわない―という気持ちで。ここからなら必ず利食いになると思う。
なにかの弾みで、パパーンと五、六百丁高などあれば、抜く手も見せずに利食いしてしまう。居合い抜きの呼吸である。
ズンズン高い―ということは、まずあり得ないが、その時はコツコツ売り上がっていく。
強弱なしの無心の境がよい。木綿針一本落ちた音にもハッと身構える冴えに冴えた境地。それは無心であるからだ。
作付けも、天候も、値ごろも、なにもかも忘れてしまう。
なかなかそうはいかないのであるが。
森閑とした閑な相場。相場が閑になるのは、次の材料(キッカケ)待ちのためである。という事はひと通り織り込んで、その準備に達した。だから次の情勢を待つ。
古人は閑散に売りなしと言った。
筆者は、しばらく相場を遠くに置いて見ようと思う。離れるのではない。不離である。
続落よし。反騰よし。閑散低迷よし。もとよりどうでもよいというのではない。
材料にとらわれす、高低に目をうばわれず、水の流れに身をまかす。
こういう気持ちになったのも、いささか強弱が鼻についてきたからだ。
売り厭いた―などといえば贅沢な―となる。買い玉を引かされて、うんうん、うなっている人もいるのに。しかしそれは好んで引かされているのである。いわばマゾヒズムの快楽である。大きく引かされて呻吟(しんぎん)する。あれは一種の相場の楽しみだと思う。マゾ的ではあるが。
因果玉で呻吟している人たちは、これはまだそのマゾ的快楽を続けなければならないであろう。
相場が大きく出直っていくなどと思ってはいけない。筆者はこれから下がる相場を強気していこうというのである。
そんな相場の強弱があるか、と読者は立腹するかもしれなが、あっても、なくても、あるのであるからいいではないか。
損の見えている相場である。決して相場を甘く見るのではない。相場は厳粛にして神聖である。
だからこそ無心。無我。水の流れでよいのである。
●編集部注
上記の文章を読んで、ブルース・リーの映画での台詞を想起する。
『考えるな、感じろ』
【昭和四七年六月二一日小豆十一月限大阪一万〇三八〇円・三四〇円高/東京一万〇四〇〇円・四四〇円高】