昭和の風林史(昭和四七年六月二十二日掲載分)

急騰は利食え 低落は買い拾う

相場は厳粛、神聖である。利のある玉は利食いする。これは相場に対する礼儀といえよう。

「やまももや熊野へ嫁ぎし人のうへ 三山」

五、七十円幅で安場、安場を買い下がっていく。千円ぐらい引かされてもかまわない―という気持ちで。ここからなら必ず利食いになると思う。

なにかの弾みで、パパーンと五、六百丁高などあれば、抜く手も見せずに利食いしてしまう。居合い抜きの呼吸である。

ズンズン高い―ということは、まずあり得ないが、その時はコツコツ売り上がっていく。

強弱なしの無心の境がよい。木綿針一本落ちた音にもハッと身構える冴えに冴えた境地。それは無心であるからだ。

作付けも、天候も、値ごろも、なにもかも忘れてしまう。
なかなかそうはいかないのであるが。

森閑とした閑な相場。相場が閑になるのは、次の材料(キッカケ)待ちのためである。という事はひと通り織り込んで、その準備に達した。だから次の情勢を待つ。

古人は閑散に売りなしと言った。

筆者は、しばらく相場を遠くに置いて見ようと思う。離れるのではない。不離である。

続落よし。反騰よし。閑散低迷よし。もとよりどうでもよいというのではない。

材料にとらわれす、高低に目をうばわれず、水の流れに身をまかす。

こういう気持ちになったのも、いささか強弱が鼻についてきたからだ。

売り厭いた―などといえば贅沢な―となる。買い玉を引かされて、うんうん、うなっている人もいるのに。しかしそれは好んで引かされているのである。いわばマゾヒズムの快楽である。大きく引かされて呻吟(しんぎん)する。あれは一種の相場の楽しみだと思う。マゾ的ではあるが。

因果玉で呻吟している人たちは、これはまだそのマゾ的快楽を続けなければならないであろう。

相場が大きく出直っていくなどと思ってはいけない。筆者はこれから下がる相場を強気していこうというのである。

そんな相場の強弱があるか、と読者は立腹するかもしれなが、あっても、なくても、あるのであるからいいではないか。

損の見えている相場である。決して相場を甘く見るのではない。相場は厳粛にして神聖である。

だからこそ無心。無我。水の流れでよいのである。

●編集部注
上記の文章を読んで、ブルース・リーの映画での台詞を想起する。

『考えるな、感じろ』

【昭和四七年六月二一日小豆十一月限大阪一万〇三八〇円・三四〇円高/東京一万〇四〇〇円・四四〇円高】