昭和の風林史(昭和四七年六月二日掲載分)

降霜不安解消 相場ガタガタに

順気順気で値が下がるという歌の文句はないけれど釜ヶ崎で騒動のある年の小豆は安いのである。

「駿河路や花橘も茶の匂ひ 芭蕉」

解禁を待ちかねていたように山梨商事の霜村社長は鮎釣りに出かけた。この人は三月一日の山女魚の解禁日と鮎の六月一日は、よほどのことがない限り出社しない。それで〝電光足の先生〟霜村昭吾氏に、新ポの相場をどのように判断したかを聞いてみる。

「月末の、あの上げ方には意味がない。そして新ポ安寄りするなど、一貫性がない。十一月限の一万二千円台は、もちろん売り場で、天候のほうもモスクワの気温がこのところ高く、これが12~13日後に北海道のほうにまわってくる。まず低温の山は越えたと見てよい。早ければこの相場十日ごろ、遅くとも札幌祭(15日前後)から崩れてこよう。新穀一万二千円台なら北京商談で当社も手当てしてみたい。まあ今年は十月が二日新ポで、最終的に大崩れしてピリオド九月下旬から十月中であろう。コロンビア産、台湾産の捨て場月になるし、秋の交易会もそのころには話題になる。北海道も作柄は決まる。それまでは一万一千円以上は売り上がり、一万五百円以下は買いという逆張りで上手に泳ぎ、資金を温存しておいて十月からの八千円割れ相場に勝負をかけるという基本方針である」

見ていると新ポの11月限の生まれは、大衆筋が思いきりよく買った。31日の引けの地合いからいえば、全限月もっとも走ってよいと見ていたのだが、あれはあれで一ツの相場、新ポにそれだけの力を持ち越せなかった。しかし新穀11月限には新鮮さというものがあって、その新鮮な魅力にひかれて大衆は買ったのだと思う。

ところが、早くも二千円台なら北京商談で手当てしてヘッジしようとする動きが出てきては、これはもう上値に限度、限界のある相場というしかない。

九、十月限にしてもここからあと三、四百円伸びてくれたら、なんとか格好のつく買い玉は、まだ相当残っている。産地の天候のほうが心配ないとなれば因果玉は因果玉のまま棚ざらしになって、また嫌な思いをせねばならなくなろう。

窓あけて飛んだ空間、さしあたって10月限でいえば一万八百円までの窓、これを埋めるのが先決で、その次は新ポ生まれた11月限の千丁下げという限月間の窓を埋める相場となろう。先限は結局一万一千二百円あたりまで順気で叩かれる相場である。

●編集部注

大衆は全て間違っている―。

キモノトレーダーの出現で、この格言は必ずしも当てはまらない…ように見えたのだが…。
 
相場で生き残る事は、勝つ事よりも難しい。

【昭和四七年六月一日小豆十一月限大阪一万一九八〇円/東京一万一九七〇円】