高値掴み多い どこかで投げが
常識的な相場、地味な相場である。さあ男の子それいけ―などという場面は期待しないほうがよい。
「実梅落つ音に長居をして居たり 牧水」
気がついた時にはもう千円も下がっていたという相場になりそうだ。
基調下降の相場に抵抗するかのように減反を囃し低温を予想して買い方は防戦するけれど、態勢に別条なく基調は戻しただけ悪くなる。
先に一万一千八百円の戻り頭を、かなり買いついた。その相場が千五百円下げた。
そして五月末にかけて反発したが、一万一千三百円どころで頭づかえになった。六月の新ポ、十一月限を、男の子、買わなきゃ―と、また高値掴みになった。
いまの相場は、乗せ乗せが利かない。勢いに乗って、さあここから―というところを、逆に売らないと駄目である。
大型の相場ではないのだ。ここ二、三年来の相場は、上げでも下げでも、勢いに乗って押しきる、それが成功してきた。乗せ商いというやつである。
ところが、今の相場は、さあここからが相場というところで終わってしまう。腹八分でなく腹五分ぐらいで、ちょうどよい。
だから目先師なら値動きの三割ないし五割も取れば上出来としなければならない。売りっぱなしで五千丁替えだとか、買いっぱなしで七千丁取ったなどという相場ではない。
従って、損しないようにいくなら、一万一千五百円以上売り。なにかの材料出現で突飛高をしたり、湧いたところは、売ってしまう。下値にしても、一万二、三百円あたりは逆に買ってみる。
小豆の実需に必要な絶対量は確保されている年である。
北海道の天候や作柄は相場の薬味みたいなものである。薬味というものは、あればよろしいが、無ければどうにも食えんというしろものではない。
いうなら今年は面白くない。常識が通用する。あくまでも需給による値動きで、まあ派手なことは期待しないほうがよい。
ところで減反の手亡の相場はどうかと言う。
手亡という相場は、なかなか難かしい。動かないとなれば三カ月、その一代も動かないこともある。
取引員の店頭で見ていると小豆の立ち会いが終わるとお客さんにつないでいた電話のほとんどが切れてしまって、手亡の気配を伝えるセールスは非常に少ない。三月限だけに人気も依らないし、相場がなんとも難かしいからでもあろう。
●編集部註
商いがなければ、相場はただの数字の羅列に過ぎない。平成の小豆相場に一気に百億つぎ込んでもまず値段が付かない。
グアムのドッグレースで10倍のオッズの犬に500㌦一点買いした途端、1・3倍になるようなものだろう。賭場にも、格というものがある。
四十年前の文章を長く読み返して思う所がある。風林火山の記事の歴史は即ち、日本の商品先物取引という賭場の格がどんどんと落ちていく様子を描いた記録でもあるのだ。
何故、こんなにも格を落としてしまったのか。 ヒントは今回の文と当時の相場にあるような気がする。気付き次第で、日本の商品市場はラサール街規模に戻れると思う。
【昭和四七年六月三日小豆十一月限大阪一万一九四〇円・一三〇円高/東京一万一八八〇円・一〇〇円高】