昭和の風林史(昭和四七年六月十七日掲載分)

案外、ここから下に千丁安という相場かもしれないな、と思うのである。そうなったらどうしよう。

「青梅に眉あつめたる美人かな 蕪村」

相場の世界では、閑散に売りなし、などという。ところが今の小豆相場は、閑散になったあと、真空斬りでストンと落とされる。

どれほど信念を持っていても、この小豆を強気している人たちは、我れながら嫌気がさすはずだ。

ほかならず、彼はなぜ強気なのか?と問えば、高値に買い玉があるからである。取り組みも悪い、作柄申し分なし、輸入小豆圧迫。そのなかにあって買いの旗印をかかげているのは、まさしく奇蹟を待つようなものである。

ところが相場には理外の理という、奇蹟に似た動きが、案外あるもので、七月限の一万六千九百三十円などという買い玉を、まだ辛抱して頑張っているような人が現に存在するのも、あるいは、ひょっとしたら―と、万に一ツの奇蹟を期待するからである。それともうひとつは投げたら銭がいる。損の決済をしなければならない。うんうんうなりながらも追証を積んで玉が生きているうちは、わがものである。切ったら、苦しみは消えるかもしれないが、別の苦痛がさっそくはじまる。

西条八十作詞、古賀政男作曲のゲイシャ・ワルツという歌がある。その中に、買わなきゃよかった小豆の相場、こうれえが苦労の初めでしょうか―というのがある。

それでストトン、ストトンと値が下がる、いまさら投げろとは殺生な―などとも言っておれない。いま鳴る電話は追証の電話、手をふり、いないといってくれ、たびたび居留守も限度があって、入らなければ玉を切ると最後の通牒。

切ったわ、投げたわ、大底だった―ということもよくある事だ。あの野郎となる。他人をうらむでない、みんながその気になったところが往々にして底になるのだ。明日(あす)のことは誰にも判らない。明日に望みがないではないが、頼み少ないただ一人、赤い夕日も身につまされて、泣くが無理かよ渡り鳥。

さて、この先どうなるのだろう。

売り玉は利食いして戻りを待って、また売る方法。

相場師は大底をぶっ叩くというから、九、十月限の九千二百円目標で、底抜けの勢いに乗る方法。

相場は、先限で一万二百円あたりを付けてしまう模様である。

●編集部注
 上記のような筆致の事を一般に「筆が踊る」と表現する。ワルツかな。

【昭和四七年六月十六日小豆十一月限大阪一万〇四〇〇円・五三〇円安/東京一万〇三九〇円・五〇〇円安】