昭和の風林史(昭和四七年十二月二日掲載分)

小豆だろうが ええじゃないか

なんで高いのか―などと考えているようでは駄目で一緒に酔わなければ…というムード。

「寒波来る山脈玻璃の如く澄む 吐天」

人形町の商店街は、もう注連飾(しめかざり)が張られ、門松も立っている。そして十二月の声を聞くと急に寒波が吹きさらし、誰も彼もが持ち合わせている悩みごと、頭痛(いた)が、きわだって大きくなるようだ。

相場のほうは、株式市場の〝狂った動き〟が商品市場に感染した感が強い。卸し売り物価も高騰だし、ゴルフの会員権も暴騰。暴騰は、どこへ行っても話題であるし、そういう時に理くつではない、小豆相場だって一万一千円だし一万二千円だ―と、当たるべからざる勢い。まさに気炎万丈の年の暮れである。

小豆市場に再び仕手がかった動きが見られる。計と市場を蹂躙(じゅうりん)した板崎兵団は、査察など、ものかわと、小豆市場に機甲師団を投入、場面はにわかに緊張した。

理くつではないという。それじゃなんだ?

買うものがないから買う。高いから買う。買うから高い。世は挙げてインフレだ。

人々が狂っている時に狂わない人は、狂った群集から見れば、狂った人間ということになる。

文政十三年十月から始まった「おかげ参り」は、その末期においては熱狂的な「おかげ踊り」に転化した。慶応三年の「ええじゃないか」はこの「おかげ踊り」の発展したものである。

「ええじゃないか、ええじゃないか、なんでもええじゃないか」と繰り返しながら熱狂的に民衆が踊る。片寄ったエネルギーが爆発するのである。

今の小豆相場も〝ええじゃないか、ええじゃないか、なんでもええじゃないか〟。小豆もええじゃないか、安いじゃないか―で買われているように見受けられる。

一ツの世相であろうか。群集心理である。そこには豊作数字も輸入も実需不振も問題ではない。これも相場である。

エネルギーが燃え尽きるまでは、なに人たりとも逆らえない。忘年会で酒がまわり乱(らん)に入ってしまうと、あるピークに達するまでは騒ぎが収まらないようなものである。

ならばこの小豆を一緒になって強気するのも自由であろう。相場は熱狂してするものではないが、熱狂した人を冷静に眺めている人もないではない。

●編集部注
迷いの門から正信まではほんの一瞬(ひととき)。

行間を読むと、既に悟りの境地に入っている。

これが後年「風林火山は曲がっている時の方が面白い」と言わしめた、一つの芸の到達点なのか。

【昭和四七年十二月一日小豆五月限大阪一万〇二五〇円/東京一万〇二〇〇円】