昭和の風林史(昭和四七年四月十八日掲載分)

消える消える 値が融けていく

アクが抜けるどころか値ごろ観の買い物があとを絶たないから、いよいよ根の深い下げになる。

「わらさがるけふは二筋雀の巣 虚子」

全限が万円大台を割るまでは、とりたてて書くこともない。割ることは見えているし、それは予定のコースである。また、大台を割ったからどう、という感激も悲観もない。なるべくしてそうなる。

需要を供給が上回り仮需要がすべて因果となって、一時的に仮供給が価格構成の場である市場にあふれて、妥当な水準に値段をもっていく。

人為的、あるいは自立的に反発したところは売っておく。なぜならば、決して出直る相場ではなく、戻すと、また後が安くなるからである。

古来、相場は相場に聞けという。

相場様、あなたはどちらに行くのですか?。返事もしない。もの憂いという風情である。わしゃ疲れた―などという俗なことを相場は言わない。見れば判るだろうとも言わない。

見ても判らん人が多いから言うだけ詮(せん)ないのかもしれない。

ここから新規に売ってもいいのである。只今の相場の地合い、先行き見通し、四月末在庫三十六、七万俵予想、大きな高値の因果玉―等々を思えば。

だが、この値段は売りにくい。そうだろう、売れないはずだ。少なくとも相場を知っている人なら売れない。値ごろ観というものがあるからだ。

しかし、今、この値段を売れない人が、ものの五、七百円崩れてくると、決然と(他人が見れば)売ってくることになる。いやそれは投げではあるが、売ってくる。

まあ、それが相場である。

先月の30日が戻り一杯。それからというものはどこを買ってもすぐ引かされてしまう。

オールカンカン皆すべて買い玉という買い玉、全国市場全限、水びたしである。しかもまだ一万六千八、九百円などという無形文化財的驚異の買い玉を維持している人もある。笑いごとではない、その身になってみれば心中察するに余りある。そういう玉に今投げろというのは残酷だ。期日が来て限月の寿命をまっとうさせるのが親切心である。

先限が大台(一万円)を割ってから、反発相場があると思う。さあ、値幅にして五、七百円から千二、三百円。それは今の値段の圏内である。そしてその相場が次は九千円台割れにジリ貧で長い灰色の線をたどって無相場時代に、はいっていくだろう。

●編集部注
 ソロモン王やドリトル先生の如く、相場に問いかけた答えが返ってくる事はない。ただ幻影を見るだけで現実化する保証はなく、要はこれにのるかそるかだけの話である。

【昭和四七年四月十七日小豆九月限大阪一三〇円安/東京六〇円安】