相場老いたり 反騰の自力なし
相場は戻すところであるが、戻しきれないと売り方には嵩にかかって、たたっ斬ってしまうだろう。
「山の日の中天に来し葡萄園 青邨」
草に臥と書いてくたびれる。草臥れた。
小豆相場を見ていると草臥れているのがはっきり判る。
市場では、規制がきついから(相場に)元気がないように受け取っているけれど、それもあろうが、規制がどんなに、きつかろうと相場に若さがあり(当然エネルギーがある)新鮮さがあれば、今のようなことはない。
相場老いたり。
そのように思う。
くたびれた相場は休養するしかない。
森羅万象それが自然の理である。
仮りに規制が緩和されても、元気は回復しない。
大きく下げた。だから自律戻しは入る。
戻せば、また下がる。
これが相場の呼吸であり、リズムである。
日柄で、もっともっと流していかなければならない。流すとは、身をゆだねる。自然にまかす。
疲れを残したままこの相場が大きく戻すとしよう。必ずまた崩れて倒れる。その時、しっかりせよと抱き起こし―というのは歌の文句だ。相場は無常にも奈落の底にめり込んでいこう。
筆者は、いまの相場に〝体重〟を感じる。ちょうと、ウィスキーを飲みすぎて足を取られた友人を、さあ帰ろうと介抱する時に感じる手ごたえである。御本人は、こういう時には必ずまだ大丈夫だと言う。
小豆の買い方は、きっとまだ大丈夫だと思っているに違いない。
本当を言うと、規制は関係ないのである。規制を緩和せよ―と叫ぶのは、あれは相場がうまくいっていない人が、腹立たしさの持っていき所がないから、ああ言うだけだと思う。売って儲けている人は、痛痒を感じていない。そのところが、この相場の世界の面白さである。
安値から千円も戻しきれないかもしれず、千円以上を戻すかもしれないが一万三千四百円地点までは見えている相場の下げだ。
きょう、もう八月納会。夏休みも終わる。
第八ラウンド終了、もう四ラウンドしかない。九月の声を聞くと日の暮れるのも早くなる。
秋の日のヴオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるにうら悲し。
●編集部注
秋風、ヴァイオリンの音、落ち葉―。ヴェルレーヌの詩の邦訳と、当時の小豆相場を重ねている。
風林火山の愛読者が一様に賞賛するのは、古今和洋を問わぬその豊富な文化的教養の高さである。
文の最後を『海潮音』の中の一節で〆る相場記事など今も昔も例がない。
いや、一つ思い出した。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と、中国の古典の一節を巻頭紙面に載せた立花証券の石井久氏だ。
【昭和四八年八月二七日小豆一月限大阪一万四五三〇円・二〇〇円安/東京一万四五四〇円・三五〇円安】