昭和の風林史(昭和四六年八月二十六日掲載分)

殺気充満せり 空前の爆走態勢

先二本の七千円抜けは吹き抜け型であろう。時は金なり、買うなら一刻も早いほうがよい相場だ。

「ほそぼそと啼きはじめしはつゞれさせ 羽公」

どの限月も、その一代の新高値に駒を進めた。飛車や香のように突き刺す行きかたではなく、ひと目ひと目と駒が進んで歩が次々と成り金になる。案外これが速い速度で、売り方陣営の王さんに必死がかかった。ここであとは大駒の角切り、飛車捨て桂打ちのストップ高で、しのぎきれずの売り方落城まさに投了となる。

将棋でも碁でも岡目八目、案外、はたで見ている分には判り易く、なぜ売り玉踏まんのか、辛抱しても甲斐のない辛抱であることが判っていても、売っている人にすれば血の出るような苦痛である。それでは上に行くのが明々白々なのだから買えばよいのに、それも出来ない。

この相場きますよ一発千丁高という場面が。

作況は、もはや決定的である。いうなら半作(五分作)である。五万一千六百ヘクタールに半作一・二俵で計算すれば六十一万九千俵。作付け五万三千六百の発表数字から霜でやられた二千ヘクタールは差し引いて考えるのが今や常識である。

先二本の七千円大台は、アッケラカンと素通り、通り抜けである。八千円指呼の間に迫る―という場面が遠くないと思う。
しかも、これからは、売り方が相場をつくっていくだろう。
だから怖いのだ。投げや踏みには理性も良識もない、いわばドサクサである。

今さら、買えと言っても買えない人に、買えと言うのも詮(せん)ないことで買わない人は買わないが、買う人は言われなくても買っていよう。

まあ、多くを言うこともない。ただ、筆者などには一万七千円抜けが、まざまざと見えているので、今からでも遅くない―と書くのである。角度85度の傾斜帯、天地四百円幅の綺麗なコース上に相場は乗っている。

●編集部註

 愛シテモ、アイシキレナイ。 驚イテモ、オドロキキレナイ。 歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。 悲シンデモ、カナシミキレナイ。 ソレガ板画デス。

 版画ではなく、板に直接書き込んだものを削るから「板画」。板極道、棟方志功の言葉である。

 「板画」という文字を、「相場」という言葉に置き換えると、老相場師の独白のような趣がないか。

 分かっているのに、動けない。動けばいいのに、動けない。自信はあるのに釈然としない。ならば相場なんてしなきゃいいのに、それもできない。

 「見切り千両」より上には「無欲万両」が来る。これは井原西鶴の言葉といわれているが、彼も当時の米相場に明るかった。

 時あたかも、後世まで語り継がれるニクソンシ ョック直後の市場である。

 日常ではなく、非日常的な時間帯といえる。自ずと相場も、いつもと違うものになる。〝理性も良識もない〟という表現は、その全てを集約している。

 上の文章、理路整然とロジックを積み重ねているが、その発端は、相場中毒者としての感性から来ているのだろう。日足だけを見れば、過去三カ月のレジスタンスラインを上放れたばかり。〝一発千丁高〟などこの時点では大風呂敷に過ぎない。

 経験に裏打ちされた感性が囁くのだろう「ここは阿呆になって買え」と。

【昭和四六年八月二五日小豆一月限大阪一四〇円高/東京二三〇円高】