陽はまた昇る(代筆)

風林翁、今日は休むってよ。……そうですか。

それでは、先日観に行った映画の話をしましょう。

「桐島、部活やめるってよ」という映画の評判が、最近すこぶる良い。

映画館に足を運ぶと開館1時間前から既に長蛇の列。都心とはいえ、名画座に列が出来る、というのは極めて珍しい。

舞台は、何処にでもある普通の高校。リアルな演技が高校生活の「あるある」感を誘う。

大半の学生にとって、学校こそは「世界」そのものだといえる。

勉強や運動の出来不出来、所属する部活のステイタス等々、大人からみれば、とるに足らぬ些細な事でヒエラルヒーは生まれ、彼らの「世界」は階層社会と化している。

劇中、映画部の顧問は、ゾンビ映画を撮りたがる生徒に「リアリティがない」と一蹴し、「自分の半径1mの日常を撮れ」と言い放つ。

その生徒は、この階層社会では最下層の「イケてない奴」。

スポーツもまるでダメ。体育の授業でグループ分けで最後まで残る姿が切ない。

授業中に絵コンテを切っているくらいだ。勉強もできないと見る。

女子と気の聞いた会話も当然出来ない(タランティーノの話なんてわかるかよ!)。

彼の「半径1mの日常」は、まさに、高校男子にとって死屍累々の地獄絵図…。

そう、ゾンビ映画は、日常の映像化に他ならないのだ。

クラスでも空気の如き彼の所属する映画部は、運動部から蔑まれ、同じ文化部の吹奏楽部からは格下扱い。まともな部室さえない。運動部の部室に間借りした暗く狭い一角で、部員達は蠢く。

教師の意見を無視して、彼は仲間とゾンビ映画を撮り始める。それは、この「世界」へのささやかな抵抗でもあった。

そんなある日のこと、勉強も運動も「イケてる奴」である階層社会の頂点、桐島が突然部活をやめ、学校にも来なくなった。

「世界」の中心が突然消えた。

時間の経過とともに、残された者達の「半径1mの日常」が崩れていく。

無論、映画部の彼の日常も例外ではなく…。

映画の最後に流れる曲は「陽はまた昇る」。全てはこの曲に集約される。