魂に重い、軽いあり
作家の城山三郎さんは『情報氾濫の社会では、省くことを心がけないと身を亡ぼします』と言った。
また、新聞、雑誌で、心をこめて書かれたものは、時間が経てば経つほど、くさり行く記事群の中で荒野の星のように光を増していきますーと。
情報は、くさらせよ。あわてて読んで、ふり回されるな。放っておいて、くさるものはくさらせばよい。
テレビは、ニュースが嫌いだと言っていた。
やはり、ニュースに、ふり回されるのが嫌なのだ。
たしかに今の世の中、知らない事が恥だと思っている人が多い。
「知らざるを、知らずとせよ」。論語にある。
愚も、愚を守れば(徹すれば)愚ならずである。
この事が判らない。
しかし、若い人が、これをやると危険かも知れない。生兵法怪我のもとになる。というのも、まわりがすべて賢い人ばかりだから、愚に徹する怖さが判らない。
日経新聞は読まずにデスクの横の椅子の高さまで積んである。テレビは、ほとんど見ない毎日である。
一カ月入院した時、新聞も、テレビも、まったく見ないで、どうなるか実験してみた。すべて「無用の用」であったことを悟った。
人様は人様。世間様は世間様。自分は自分。
城山三郎さんではないが、ふり回されるのが嫌で、それらは雑音である。うるさいだけである。
寒山拾得みたいな生活にあこがれるが、まだそこまでは遠い。
俗人の俗という字は谷間の人で低いところにいる。
仙人の仙は山の人で高いところにいる。
高い低いは、関係ない。自分の好みの場所に居るだけ。
世間でいう偉いとか、偉くないの区別は、魂の軽重で量っていない。人間性の問題は、伝わるか、伝わらないかである。
2005年6月記