風林火山のニコニコ相場様 2023年11月4日

神様は「無為自然」

神様のことや、仏様のことで考える。

神様や、仏様は、人間社会でなにが起こっても「無為自然」。

それは、成るように成っているだけだ、と見ておられるのかもしれない。

人間が、あれこれ考えるほど、神様や、仏様は思っていない、と思う。

それは、ああしよう、こうしようという思いなどまったくない。

だから神様であり、仏様なのかもしれない。

日本が戦時中、国をあげて、ことある毎に神社を参拝して「必勝」を祈願した。

それは、なんの役にもたたず、沢山の人が死んで、日本は敗けてしまった。

入学試験前に、子供たちは神社に合格祈願をするが、落ちる者は落ち、本人の成績次第となる。

しかし、祈願せんよりしたほうがなんとなく気がやすまるのである。

困った時の神だのみという。困らん時は、切迫感が無い。たとえ、毎月、決めた日にお参りにいくにしてもそれは欲からである。

本当は、感謝の気持ちで、おかげ様でと、今をありがたく思わねばならない。

神様に、なにか、聞いてもらいたいと、お供えを、どんなに積んでも、お供えする側の人間の心が、それで納得できればよろしい。

神様なんか、おらん、と思っている人は、そう思えるあいだは思っているのがよいかもしれない。

人間は、本当に弱いものである。

なにか悪い事が続くと、罰があたったかもしれないと必ず考える。

性悪説の荀子は『遇と不遇は時なり』。運命が、うまくいく時と、うまくいかない場合がある。それは、みんな時である。

時とはなんぞや、時間である。

時間は、「今」が、次々に姿をあらわして過去に消える、いわゆる「今」の流れだ。

今は、いまである。現実ともいう。遇も、不遇も今の姿といえよう。

神様の仕わざではないのだ。

2005年6月記