神様は「無為自然」
神様のことや、仏様のことで考える。
神様や、仏様は、人間社会でなにが起こっても「無為自然」。
それは、成るように成っているだけだ、と見ておられるのかもしれない。
人間が、あれこれ考えるほど、神様や、仏様は思っていない、と思う。
それは、ああしよう、こうしようという思いなどまったくない。
だから神様であり、仏様なのかもしれない。
日本が戦時中、国をあげて、ことある毎に神社を参拝して「必勝」を祈願した。
それは、なんの役にもたたず、沢山の人が死んで、日本は敗けてしまった。
入学試験前に、子供たちは神社に合格祈願をするが、落ちる者は落ち、本人の成績次第となる。
しかし、祈願せんよりしたほうがなんとなく気がやすまるのである。
困った時の神だのみという。困らん時は、切迫感が無い。たとえ、毎月、決めた日にお参りにいくにしてもそれは欲からである。
本当は、感謝の気持ちで、おかげ様でと、今をありがたく思わねばならない。
神様に、なにか、聞いてもらいたいと、お供えを、どんなに積んでも、お供えする側の人間の心が、それで納得できればよろしい。
神様なんか、おらん、と思っている人は、そう思えるあいだは思っているのがよいかもしれない。
人間は、本当に弱いものである。
なにか悪い事が続くと、罰があたったかもしれないと必ず考える。
性悪説の荀子は『遇と不遇は時なり』。運命が、うまくいく時と、うまくいかない場合がある。それは、みんな時である。
時とはなんぞや、時間である。
時間は、「今」が、次々に姿をあらわして過去に消える、いわゆる「今」の流れだ。
今は、いまである。現実ともいう。遇も、不遇も今の姿といえよう。
神様の仕わざではないのだ。
2005年6月記