人生に理屈はいらん
俳句で思慮分別的なものや人生観みたいなものを詠むのは、全部理屈で、俳句とはいえない、と森澄雄さんがいう。
森さんは大正8年生まれ。俳誌「杉」創刊主宰。恩賜賞や芸術院賞、蛇笏賞、毎日芸術賞受賞、日本芸術院会員。
『今の俳句は俳句でない理屈ばかりだ』と、いつも言っている。
賢いと物が見えない。自分を捨てなければ外の声が聞こえない。
池田俊二さん(俳人協会会員)は『日本語を知らない俳人たち』(PHP研究)で、大新聞の俳句選者たちの日本語を知らない惨状を憂いている。
大新聞の選者といえば権威である。その人たちが日本語を知らない。賢いから物が見えなくなる。
いまは、心がない俳句ばかり多い。どうした、こうした、理屈で生きている日本人たちである。
江戸時代の名のある俳人の句には、絶対、理屈がない。そして大きい。
やはり時代の変化、生活からの人生観の変化である。
『分別的な人生観みたいなものは、全部理屈』と森澄雄さんに言われると、それが俳句の世界でない世界にもいえるから怖い。
室生寺に空海さんの「煩悩測菩薩。生死即涅槃」という境地が大きな石に彫られている。
菩薩とは悟りの境地。煩悩が、そのまま悟りになる。こだわらず自然のままでいいわけだ。
人生に理屈をこねてもなんの意味もない。なまじ人生観など説いて、それは、なんだ、となろう。
相場の強弱でも理屈ばかりである。材料を並べればいいというものではない。
ああだったから、こうなった。
それで、そのあと、どうなるのか。説明と言いわけと理屈が相場記事になった時代ともいえる。
相場記事にも心があるべきである。ファンドにも心がある。コンピュータには心がないが、入力データには人間の心が入っているはず。
2005年8月記